ピカソの『青いショールの女』を、また見てしまいました。愛知県美術館でやっている『シャガール展』を見にいったんですが……肝心のシャガールは、日曜だったこともあってかなりの人だかりで、一気に見る気がしぼみ……そこで、シャガールはそこそこに、コレクション展(常設展)の方に……こちらはガラガラで、木村なんとかさんの小川芋銭のコレクションなんか、会場にだれもおらず……なんともったいない、芋銭の作品をこんなにたくさん見られる機会なのに……と思いましたが……にぎやかに入ってきた家族連れもくるくるっと回って二三分で外へ。まあ、こんなもんなのかな……
ということで、この常設展で、再び(というか何度目かな?)ピカソの『青いショールの女』に出会ってしまったのでした……この作品、常設展には必ず飾られているんですが、やっぱり他のすべての作品を圧するほどのオーラがある……最初に見たときの強烈なインパクトはさすがに失せてますが……そのかわり、じわじわと、すごいことがわかってきました……なるほど……この作品、ほかの作品とまったく違うと思っておったが、さもありなんじゃのう……(と、いつのまにか長老?みたいなしゃべり方になるくらい、すごい)……こう思ったのは、最近読んだある本の影響なのかも。
八木雄二さんという西欧中世哲学の研究者の『神を哲学した中世』という本なんですが、この本に、ヨーロッパ思想でいう「理性」の中には、「感情」も含まれるんだということが書いてある。なるほど……これは目からウロコでしたが……日本人の場合、「理性」というと、なにか、「感情」を排除した冷たい合理主義的な知性みたいなものを思い浮かべるんですが……ヨーロッパ思想では、「感情」さえも「理性」の中に取りこんでしまおうとするんですと。なので、当然日本人が思う、理性を欠いた、いわば盲目の状態の「感情」もあるのだけれど、かたや、「理性的な感情」もある……というか、「感情」さえも「理性」によって扱っていこうとするところに特徴がある……
うーん……なるほど……おっしゃろうとすることはとてもよくわかるんですが、私は日本人だし、頭では理解できるけれど、実際、「理性的な感情」ってどんなんだろう……と思ってましたら、このピカソ。『青いショールの女』……じーっと見ているうちに、やっぱりそうだったんだ……と思いました。この女性はきっと貧しい。しかも、その日の食べ物にもことかくくらい貧しいんでしょう……その人生も、いろいろ苦労ばっかりで報われることが少なく……ただ、なんとか日々を耐え忍んでいるうちに、もう四十、五十の盛りもすぎて肉体は衰え、心も冷え固まってどんどん「物質化」していく……人間としての、いや、生き物としての、最後の光が、じりじりと燃え尽きて、ものいわぬモノに、なりはてていく……
この女性の「感情」。それは、もうすでに、外側に向けて「爆発」するようなものでもない。もう「解放」のときも来ず、このまま、うちがわでくすぶり続けて徐々に冷え固まっていく……しかし、まだ、彼女は、自分を取り巻くまわりに対して「発信」を続けています。ピカソの筆は、その彼女の「冷えていくいのちのオーラ」をみごとにキャンバスにうつした……ちょっとオカルト的にいうなら、「封じこめた」といってもいい。しかし、ピカソの絵の力がオカルトと異なるのは、そこに、まごうかたなき「理性」の制御がきちんと働いている点……なるほど、こういうことだったのか……「理性的な感情?」なんじゃろ??と思っていたものが、今、目の前にある……この絵の中に、静かに、しかし確実に、それがある……
そうだったのか!……私は、ちょっと興奮しました。たしかに……これは、ヨーロッパ思想の「石を根気よく積んでいく働き」でしか到達しえないものなのかもしれません。ピカソの作品は、わがくにの画家にも大きな影響を与え、そのスタイルを模倣した作家は数限りない。しかし……このピカソの筆のように、「感情を理性で救いとる」ことのできた人が、いったいどれくらいいるんだろうか……私は、ここで、日本画の村上華岳のことを思う。彼は、ピカソのスタイルとはまったく違う。しかし……もしかしたら、日本で、ピカソとおんなじようなことをやっているんではなかろうか……華岳は日本人なので、「理性的な感情」とかにはもちろん縁はありません。しかし……でてくる絵が、とても似ている……
ピカソの場合には、頭の中で知識として、中世哲学の「理性的感情」みたいなものを知ってたかどうかはわかりませんが、やっぱり彼は「ヨーロッパの人」なので、そこに対する血肉段階での理解というものが、ベースにあるような気がします。とくに、彼の「青の時代」の作品群はそんなかんじですが……対象を描いて、対象に感情的に没することなく……そこにある感情、思い、さまざまにうごめくもの……それを、あの暗い青の中に浄化して、そしてやはり「理性」としか呼べないものの中にきちんとその位置を与え、「理性の言葉」で語らせようとする……この作業は、とても大変なものだったと思いますが、彼の、「これをやらなくては次に進めない」という気迫が、不可能を可能にして、「理性感情」がそこにある……
では、華岳の場合はどうだったのか……華岳の血肉ベースは、ヨーロッパの石の教会ではなく、日本の、木と紙でできた建物の中に渦巻く男と女のさまざまな感情……そこに流れる三味線の音……そして、それを取り巻く豊かすぎる自然……なんか、そんなものだったように思う。そこに流れるのは、ヨーロッパ的な「理性」とはまるで違うけれど、やはり、いろんな感情を理解し、そして、どんな感情も、あえていうなら「優しく」包みこんでいこうとするふしぎな流れのようなもの……これを、「観音力」といってもいいのかもしれませんが……この国でいう「観音力」は、あきらかに、人間だけではなく、さまざまな動物や植物、そして山河……自然全体を、大きく包摂して救いあげていこうとする、そんなものかもしれない……
ピカソの『青いショールの女』は、これからも、必ず常設展には出てくるのでしょう。これまで、なんども見たけれど、いまだに、これに「勝つ」作品がない。これは、ちょっと驚くべきことだと思います。たしかにモジリアニもクリムトもすごいんですが、「普遍性」という観点から見ると、やっぱりどっか偏っていて、ピカソの敵ではない。なぜ、ここまで「普遍性」を自分のものとすることができたのか……それはナゾですが、たしかに達成している。だから……感情が理性の翼を持って、全体を覆うオーラとなる……華岳の作品は、「普遍性」という点では、たしかに西欧風の「普遍性」にはほど遠いかもしれないけれど、西欧の「普遍性」が限界を画した部分、つまり「人間」の境界の外にあふれて、山河も宇宙も、すべてを豊かな「感情」の中に救いとっていこうとする、その力がある……
絵って、ふしぎだなあと思います。理性も普遍も、通常は「言葉」で語られるんですが……必ずしも「言葉」が、それを語る道具として唯一のものではない。それを教えてくれる……いろんな画家が、いろんなものを表現しようとして戦ってきたわけですが……絵が、一旦、ある限界を超えてしまうと、それは、数十センチの画布の中に留めておけない「宇宙」を展開します。物理的には、布の上に置かれた絵具の集合……なのに……これだから、絵を見るのはやめられないし、まして描くのはやめられません。私自身の作品が、どれだけそういうことに成功しているかはわかりませんが……それは、結局、私自身が、今、この時代に、ここに生きているということと大きくかかわってるんでしょうが……でも、やっぱりそれを超えて、なにかの場所、どこかの「家」に到達したいなあと思いますね。たとえ、そのときに、自分の肉体が、もうこの場所にいなくても……
