私は、バロック音楽やルネサンス音楽が好きです。いわゆる「古楽」というヤツですが……今、いちばん気にいってるのは、15世紀~17世紀にかけてのヨーロッパの音楽ということになりますが、昔はやっぱりバッハ、すなわち「大バッハ」と呼ばれるJ・S・バッハさんでした。むろん今でも大好きなんですが……
演奏形態は、人の声の入ってるのよりは、器楽の方が好みなんですが、『マタイ受難曲』だけはなぜか、何度も聴きたくなりますね。まあ、昔から聴いてきたというのもあるのかもしれませんが……以前「木の十字架合唱団」だったかな? なんか、そんな名前の団体の来日公演をカセットテープに録音して、くりかえしくりかえし聴いていました。
レクラム文庫でドイツ語歌詞を買って(たまたま丸善に売ってた)対照しながら聴くと、新約聖書のストーリーはだいたい覚えているので、なんとなくわかります。やっぱり歌が入る曲は、歌詞の意味がわからないと、伝わってくるものも半分かそれ以下になってしまう……ということで、わからんところは辞書を引いたりして聴いてました。
今では、ネットで原文も対訳もカンタンに手に入る……便利な時代になったモンですが、苦労して意味を調べながら聴くのもまたいいモンです。ということで、いろんな演奏者の演奏が聴きたくなって、ディスクもいろいろ集めました……といっても、この曲のディスクは数えきれないくらい出てるので、ホンの一部なんですが……
やっぱり正当派というか、基準になるのはリヒター盤なんでしょうね。で、新たな基準がレオンハルト盤かな。これを聴いたとき、かなり新鮮に感じた。でも、そのあと、マクリーシュ盤を聴いてビックリ。古い写真を、色調や損傷を復元して、スッキリ鮮やかに色が甦ったような感覚……これはスゴイと思いました。
バッハの初演のときには、合唱の各パートがなんと一人!だったという話があって、マクリーシュ盤はこれにならってやってるとか。各パートが一人だと「合唱」にならんかったんではないか……とも思いますが、その理由が「お金がなかったから」ということらしくて、なんか、バッハさん、かわいそう……そんなに困ってたのかな……
それはともかく、ぶ厚い合唱団の雲が渦巻くような『マタイ』に馴れた耳には、これは新鮮。旋律線が筆で鮮やかに引かれた墨の線のようにクッキリ浮かびあがってくる。そしてテンポはけっこう速め。冒頭の合唱が「ワルツ」だったことが、このマクリーシュ盤ではじめてわかった。そうか、これなら踊れるかも……
マクリーシュ盤を聴いてはじめてよくわかったのは、やっぱり「19世紀の影」ということでしょうかね……市民社会で、お金ができて、娯楽は大ホールでのオペラや管弦楽。楽器の音量もでかくなり、オケのピッチもあがり、演奏者の人数も膨れあがり、何千人もの人が一度に同じ演奏を聴く……音楽が、「興行」として成立しはじめる。
オケは、オペラでなくとも「物語」、ロマンを奏しはじめる。ぶ厚く、感情をこめて盛りあげなきゃならない……ので、当然テンポも遅くなる……というか、通奏低音の壊れた19世紀の音楽には、元々「リズム」というものが物語に奉仕するシモベになってるので、要するに演奏者の持ってる「物語」のルバートが強烈にかかっている……
バッハの『シャコンヌ』をピアノ版にしたブゾー二の『シャコンヌ』なんかその典型だと思うのですが……で、そういう解釈というか演奏も、それはそれでなかなかすばらしいのですが、やっぱりバッハ本人が聴いたらたまげて『ナニコレ?』というかもしれません。それほど、おそらくルネサンス、バロック時代と違うモノになっている。
マクリーシュの演奏は、そういう「19世紀の影」をできるだけ払拭して、「当時の姿」を浮かびあがらせようというここ数十年の努力のはてに生まれてきたものであるように思います。リヒター、レオンハルトというエポックがあって、そしてこんなかたちで『マタイ』が甦った……むろん「当時の演奏」は、だれにも正確にはわからないわけだけど……
でも、マクリーシュ盤を聴いてると、確実に「19世紀の影」が払われていったあとの姿が見えてきます。やっぱりこの演奏は、今後の一つの基準になるんじゃないだろうか……まあ、それと極端に対照的なのが、メンゲルベルク盤なんですが、実は、こちらも、私は大好きです。ナチスの影が迫る1939年のアムステルダムでの演奏会……
むろん音質は、現代とは比べものにはなりませんが……それでもスゴイ。ヴァイオリンなんか、徹底的にポルタメントで、まるでテルミンです。もう、すべてが渾然一体となって、まさに19世紀そのもの……って、時代的には20世紀なんですが、濃厚に19世紀をやってる。物語が溢れ、すべてに浸潤して厚く熱く重なっていく……
この演奏には、第二部の「ペテロの否認」の部分で、観客席から女性客のすすり泣きが入ってる……というオマケもあります。聴いてみますと、たしかにそれらしい音は入ってるのですが……でも、確たる証拠はない。にもかかわらず「そうに違いない」と思わせてしまうのは、やっぱりメンゲルベルクのスゴさ?というか魔力というのか……
昔、まだSP盤だったころの、演奏会と記録媒体にまつわるユーレイ的なエピソードの一つか……「音楽の力」が信じられていた時代。音楽は、人の霊を動かす。魂に働きかけて人の、もしかしたら生涯までも決めてしまう力を持つ……このことは、現在でもあんまり変わっていないような気もします。というか、ますます巨大化しているのかも。
それにしても、やっぱりバッハという人はスゴイですね……『受難曲』はバッハ以外の作曲家もいろいろ作ってるわけですが……ある意味、この曲は、いろんな「受難曲」のやぱり頂点なのかもしれません。まあ、そんなにたくさん聴いてるわけじゃないので、なんともいえないんですが……これからどんな演奏が出てくるのか、楽しみです。
