昔から、「本当のことを知りたい」と思っていました。
本当のこと……いま、私の目の前にあるこの世界、その中で私が生きているこの世界……それが、本当はどうなっているんだろう……そして、私は、この世界の中で、どういうふうにあって、どうなればいいんだろう……こんな問題は、結局「哲学」と呼ばれる分野なのかもしれませんが、ちょっと具体的に書きたいなあと思うと、昔、中学校の生物クラブで、「ヌルデの葉の奇形」を調べたことを思い出しました。
ヌルデはウルシ科の広葉樹で、枝に葉っぱが奇数枚つきます。つまり、枝の先に一枚の葉がつき、その下に左右対称に葉がついていくということで、こういうのを奇数羽状複葉というそうですが……ときによって、2枚以上の葉が根元でくっついた「奇形」が現われる。この奇形の現われ方になにか「法則」がありそうに思えたので、その「法則」を確認したいと思って、校庭をとりまく土手に植わっているヌルデの木を一本一本調べていきました。
すると……「法則」が出てきます。なるほど……こういう法則に則って「奇形」が出現していたのか……いや、自然はすごいなあ……と思ってその「法則」を自分なりに文章化した。よし、これは大発見だ!とか思って報告書をまとめるのですが、でもちょっと不安になって、ホントにこの法則、正しいのかなあ……よし、念のためにもう少し調査してみよう……と思って調査を続行したのがマチガイのもと? いや、実は、さらなる正解への道……
範囲を拡げて調査してみますと、自分が立てた法則に合わない「奇形」がいっぱい出てくる……うーん、これは、根本的に考え直しじゃ……と思って、それまでに調べた「奇形」の記録を全部集めて、なんか、全体を統御する「法則」はないものか……うーん、うーんと考えたあげく、閃く「新しい法則」。よっしゃ、これだ!これならすべての「奇形」を説明できるぜ!と、またまた「大発見」に酔う私……
でも、まてよ……これでホントにいいんかいな……念のためにもうちょっと調べてみるか……と、さらにこれまで調べていなかった木も対象にして調査を再開……してみたら、なんと、「法則」に合わない例がぞくぞくと……うーん、こりゃダメだ……どこまで行ってもこれのくりかえしじゃなかろうか……ということで、ついに「法則」の発見を断念。今までの努力はいったいなんだったのか……と、急に広がる混沌の世界に、途方にくれる私……
しかし、今から考えてみると、この経験は、「自然というもの」に対する自分の理解を広げ、深め、そして「本当のこと」がいったいなんであるのか……それを教えてくれるものになったと思います。たしかに、世界には「法則」があるようにみえる。すべてのものごとが、その「法則」にしたがって起き、展開し、そして消えていくように見えます。ということは、逆に、その「法則」を知れば、目の前の世界を、自分の思うままにコントロールできるということにもなる……
自然科学の発展は、およそこういう考え方で行われてきたと見ることができるんじゃないでしょうか。
観察して「法則」を見出し、それを「実験」によって確認する……こうしてできた「法則」は、それを使うことによって、世界を意のままに変化させていける「道具」となる……ところが、忘れてはならないのは、「範囲」を限ればその「法則」は有効であるが、その限定の外に対しては、必ずしも通用するかどうかはわからないということ。世界は、そういうふうにできている。
私は、自分の「ヌルデの葉の奇形調査」によって、そのことを身をもって体験したのだと思います。
世界は深く、人の知は限定されている。「本当のこと」を知りたければ、人は謙虚になる以外にない。限定された範囲にしか有効でない「法則」を、世界全体に有効だと思いこんで無反省に使ってしまう……そういうことをやると、人の知り得る範囲の外で、なにがどうなってしまうかわからない……これは、実はオソロシイことなのですが、なぜか、科学者も技術者も、あんまり反省せずにどんどんそれをやっているように思えます。
では、どうしたらいいのか……たぶんそれは、そこで、いったん「知」を離れること。
なにかを実際にやってしまう前に、「知」を離れて、この地と結ばれた自分自身の身体や心の声を聴いてみること……今のところ、それしかないように思います。速度も、荷重も、そして思考力さえ、生身の肉体と心の間にかなりの開きがある……手で持ち上げられる重さ、足で行ける早さと距離、そして脳で考えられる範囲……そこから離れてしまうと、人は「法則」の奴隷となる。
でもね、その「限定」を、人は、まったく気がつかないうちに、いつもするり!と越えてしまっているんですね……いつのまにか思弁と、その思弁によってつくられた「便利な道具」で……でも、人の意識は、「限定」を越えたことがわからないので、フツーに考えてフツーにやってしまいます。人の世は、その積み重ねで「原発」みたいなオソロシイもんまでフツーにつくってしまった……
結局、ついに、「考え直す時期」が来たということなのでしょう……これは、逆にいうなら、「本当のこと」を知る、わかるときが来た……と。われわれの生活は、人の、限界を越えた思弁によって作られた文明の集積……それらはみな、「本当のこと」に対しては「借金」となる。いよいよその借金を返済する時期になったということで。まあ、どうなるんでしょうね……これから……
本当のこと……いま、私の目の前にあるこの世界、その中で私が生きているこの世界……それが、本当はどうなっているんだろう……そして、私は、この世界の中で、どういうふうにあって、どうなればいいんだろう……こんな問題は、結局「哲学」と呼ばれる分野なのかもしれませんが、ちょっと具体的に書きたいなあと思うと、昔、中学校の生物クラブで、「ヌルデの葉の奇形」を調べたことを思い出しました。
ヌルデはウルシ科の広葉樹で、枝に葉っぱが奇数枚つきます。つまり、枝の先に一枚の葉がつき、その下に左右対称に葉がついていくということで、こういうのを奇数羽状複葉というそうですが……ときによって、2枚以上の葉が根元でくっついた「奇形」が現われる。この奇形の現われ方になにか「法則」がありそうに思えたので、その「法則」を確認したいと思って、校庭をとりまく土手に植わっているヌルデの木を一本一本調べていきました。
すると……「法則」が出てきます。なるほど……こういう法則に則って「奇形」が出現していたのか……いや、自然はすごいなあ……と思ってその「法則」を自分なりに文章化した。よし、これは大発見だ!とか思って報告書をまとめるのですが、でもちょっと不安になって、ホントにこの法則、正しいのかなあ……よし、念のためにもう少し調査してみよう……と思って調査を続行したのがマチガイのもと? いや、実は、さらなる正解への道……
範囲を拡げて調査してみますと、自分が立てた法則に合わない「奇形」がいっぱい出てくる……うーん、これは、根本的に考え直しじゃ……と思って、それまでに調べた「奇形」の記録を全部集めて、なんか、全体を統御する「法則」はないものか……うーん、うーんと考えたあげく、閃く「新しい法則」。よっしゃ、これだ!これならすべての「奇形」を説明できるぜ!と、またまた「大発見」に酔う私……
でも、まてよ……これでホントにいいんかいな……念のためにもうちょっと調べてみるか……と、さらにこれまで調べていなかった木も対象にして調査を再開……してみたら、なんと、「法則」に合わない例がぞくぞくと……うーん、こりゃダメだ……どこまで行ってもこれのくりかえしじゃなかろうか……ということで、ついに「法則」の発見を断念。今までの努力はいったいなんだったのか……と、急に広がる混沌の世界に、途方にくれる私……
しかし、今から考えてみると、この経験は、「自然というもの」に対する自分の理解を広げ、深め、そして「本当のこと」がいったいなんであるのか……それを教えてくれるものになったと思います。たしかに、世界には「法則」があるようにみえる。すべてのものごとが、その「法則」にしたがって起き、展開し、そして消えていくように見えます。ということは、逆に、その「法則」を知れば、目の前の世界を、自分の思うままにコントロールできるということにもなる……
自然科学の発展は、およそこういう考え方で行われてきたと見ることができるんじゃないでしょうか。
観察して「法則」を見出し、それを「実験」によって確認する……こうしてできた「法則」は、それを使うことによって、世界を意のままに変化させていける「道具」となる……ところが、忘れてはならないのは、「範囲」を限ればその「法則」は有効であるが、その限定の外に対しては、必ずしも通用するかどうかはわからないということ。世界は、そういうふうにできている。
私は、自分の「ヌルデの葉の奇形調査」によって、そのことを身をもって体験したのだと思います。
世界は深く、人の知は限定されている。「本当のこと」を知りたければ、人は謙虚になる以外にない。限定された範囲にしか有効でない「法則」を、世界全体に有効だと思いこんで無反省に使ってしまう……そういうことをやると、人の知り得る範囲の外で、なにがどうなってしまうかわからない……これは、実はオソロシイことなのですが、なぜか、科学者も技術者も、あんまり反省せずにどんどんそれをやっているように思えます。
では、どうしたらいいのか……たぶんそれは、そこで、いったん「知」を離れること。
なにかを実際にやってしまう前に、「知」を離れて、この地と結ばれた自分自身の身体や心の声を聴いてみること……今のところ、それしかないように思います。速度も、荷重も、そして思考力さえ、生身の肉体と心の間にかなりの開きがある……手で持ち上げられる重さ、足で行ける早さと距離、そして脳で考えられる範囲……そこから離れてしまうと、人は「法則」の奴隷となる。
でもね、その「限定」を、人は、まったく気がつかないうちに、いつもするり!と越えてしまっているんですね……いつのまにか思弁と、その思弁によってつくられた「便利な道具」で……でも、人の意識は、「限定」を越えたことがわからないので、フツーに考えてフツーにやってしまいます。人の世は、その積み重ねで「原発」みたいなオソロシイもんまでフツーにつくってしまった……
結局、ついに、「考え直す時期」が来たということなのでしょう……これは、逆にいうなら、「本当のこと」を知る、わかるときが来た……と。われわれの生活は、人の、限界を越えた思弁によって作られた文明の集積……それらはみな、「本当のこと」に対しては「借金」となる。いよいよその借金を返済する時期になったということで。まあ、どうなるんでしょうね……これから……

