結局は転院することになったS病院、

3ヶ月半の入院生活、息子の支えとなった人物が何人かいる。


3ヶ月半のうち、

2/7-5/7の3ヶ月をHCUで過ごした息子。

水頭症のドレナージをして、

最初の段階からリハビリがあったので担当の方が3.4人ほどいた。

結局私は理学療法士と作業療法士の区別がつかず、

Hさんがどっちだったのかよくわかっていない。

(多分理学療法士さん)


息子と10歳ほどしか変わらなかったこともあるけど、

とにかく物腰の柔らかい、優しい、イケメンの療法士さんだった。


何人かで担当を回している感じで、この人が担当!というわけではなかったけれど、息子は早い段階で


Hさんがいい!


と話し、

休みの日以外はHさんが担当してくれることになった。

リハビリをしながら、息子の話をよく聞いてくれ、

息子もリハビリの時間を楽しみにしていた。

母から届くお菓子をHさんにも渡したり、

Hさんは休みの日に行ってきた、と

範馬刃牙展?かなにかで息子にステッカーを買ってきてくれたり。


リハビリの内容も息子がなるべく楽しめるようにしてくれていた。


Hさんとの時間は入院中の息子にとって、

友達と過ごすような大切な時間だった。

1日にたったの2.30分。

それでもその時間がなければ息子の心は折れ、

閉ざされていたと思う。



私にとっても癒やしのような存在で、

息子とHさんのリハビリを横で眺めるのは大切な時間だった。

とはいえ、息子を1人にしてその間になにかあったら、と不安で仕方なかった私は(鹿児島でのことや、HCUに入る前、明らかに水頭症だと思う症状が出て看護師さんに何度も伝えたのに週末なのもあって2日ほどCTさえ撮ってもらえず、水頭症だという私の意見を素人だからか聞き入れてくれなかったこともあり、看護師さんへの不信感が消えず)

シャワーを2日に一回にして、猛ダッシュで洗って病室に戻る、という生活をしていたので

Hさんがつきっきりのリハビリの時間にシャワーに行くことが増え、ゆっくりとリハビリを見ることは減った。


それでもたまにリハビリに参加させてもらったり、

リハビリはHCUのエレベーター前のスペースで行うことが多かったのでそこでだけ、外の空気を吸えたこともあり(たった5センチほど開いた窓の隙間から)

窓の開かない病室(付き添いで急遽HCUだったこともあり陰圧室?かなにかだった)と、シャワー室、洗濯室にしか行けない私にとってなんとか心を保つ場所であり時間だった。



最後、急な転院になったとき、

1番に病室に来てくれた。

私がまだ転院の確定を聞いていない段階でw

朝の申し送りで多分転院を聞いてそのまま来てくれたんだろうなと思う。


息子は前日のドレナージで多少意識はもどったもののそれでもまだ意識朦朧とする中でも、

Hさんと話し、

ほぼ無理矢理ボールペンを貰って、

ベットのままエレベーターに乗り、

救急車で今の病院へと運ばれた。


(転院して手術後すぐに、息子が探したボールペン)

何人もの看護師さん、療法士さんがエレベーターの前まで息子を見送ってくれたのを思い出す。



Hさんがいなければ、

息子はどうなっていただろうか、

病院のベットに寝かされて天井をジッと見つめる毎日、

いくら私がいても、

私だけでは限界があったと思う。



いつか、

S病院へ行く勇気が出たら、

Hさんに会ってお礼が言いたい。