文章を書くことで自分の気持ちに正直になり、

本を読むことで

これからの自分にとってのヒントを探したりした。

 

 

悲しくて泣いたり

オニのような気持ちになってしまったり、

そういう自分を隠さずに

自分で自分の気持ちをまず受け止めようと思うようになった。

 

 

 

・・・泣きたいときには思いきり泣いていい。


前向きになんかならなくていい。


  乗り越えることなんて何もない。


  今の大空への思いをずっと抱いたまま、これから生きていけばいいんだ。


今のままでいいんだ・・・。


 

そう思えるようになり、とてもらくになれた。

 

この出来事をどうすれば乗り越えられるのか、

乗り越えられる時なんていつ来るのか、

乗り越えることが必要なのか、

とずっと思っていた自分の考えが変わった。

 

そして

そう思えるようになったとき、

大空への感謝の気持ちがもてたのだ。

 

 

 

 

 

大空に感謝しながら日々を過ごし、

仕事に復帰したり

いろいろな人と接する気持ちがもてるごく普通の生活に戻ってから

こんなことがあった。

 

 

「まだ若いんだから大丈夫よ、またがんばって。」

 

「親はどんな子でもかわいいけど、

障害や病気の子はその子自身が不憫だから

これでよかったんじゃないの?」

 

やっと自分の中でいろいろなことが変わり始めたのに、

私の気持ちもよく知らない人に、そう言われたのだ。

 

 

そんなことを言われるくらいなら

ほっといてほしかった。

 

言葉を掛けてくれる人にしてみたら

私を傷つけようとして悪気があって言ったわけではなく、

その人が考えた最良の言葉がそれだったのだろう。

 

 

でも“その一言”が

さらに心をえぐる。

 

 

懸命に考えたあげくに出た言葉がそれなら、

だったら何も言われない方がどんなにいいだろうと思い、

素直に「はい、そうですね」と言い元気そうに振舞いながら

心の中では早くその人の前から立ち去ることだけを考えていた。

 

“その一言”は、聞きたくなかった一言。

 

時が経っても忘れることのない、胸に突き刺さる一言だ。

  

 

 

身近に突然赤ちゃんを亡くした人がいたなら、

どんな言葉を掛けてあげたらいいのか

どんなふうに接してあげればいいのかと、

誰でもきっと迷ってしまうだろう。

 

 

でも私も夫も、

何か言ってほしい・元気づけてほしいというようなことは

思わなかった。

 

こういう経験をしていなければ私たち自身もきっと気付けずにいたのだと思うが、

何かをしてあげるよりも、

悲しみにひたる時間を充分にあげてほしい

話を聞いてあげてほしい

一緒に泣いてあげてほしい

そして、

悲しみを経験したその人を抱きしめてあげてほしい

と私たちは思う。

 

 

「ひたる」という表現は適切ではないかも知れないが、

突然の悲しみに直面しているときには

その出来事と向き合う時間が充分に必要だと思うのだ。

 

そして、

抱きしめてもらった手から

言葉にならない思いもすべて伝わってくる・・。

 

 

 

 

 

 

 

大空が無脳症だと知ってはじめて、

無脳症が世間にあまり知られていない病気だと知った。

 

 

おなかの中の赤ちゃんに起こりうる病気なのに

妊婦本を読み返してみても無脳症についてはふれておらず、

同じ先天性の異常のいくつかについて書かれてはいても

無脳症はでてこない。

 

私たち夫婦は、

世の中にこういう病気があること、

生まれては来られなかったけれど生きた命があること、

少しでも多くの人に無脳症を知ってもらおうと思い

このブログを始めた。

 

 

 

 

 

 

大空への感謝の気持ちがもてるようになってから、

私たちのところにやってきてくれた大空は

私たちにしあわせもたくさん運んでくれたことに

改めて気付くことができた。

 

私たち夫婦を選んで、

私たちのところが良くて来てくれたはずだと

信じることができた。

 

 

小さな命をかけて教えてくれたこと、

大空が残してくれたメッセージを、

時間がかかってしまったけれど

ひとつひとつ受け止めることができるようになった。

 

 

 

 

大空はきっと、

私たち夫婦のきずなを

さらに強くするためにやってきてくれた。

 

強い夫婦力をくれたのは、大空だった。

 

 

 

 

たとえ都合のいい解釈であっても

今、私たちがそう信じられることが

大空が生きた意味だ。

 

 

 

 

 

今も、そしてこれからも、

大空に心の中で詫び、感謝している。

 

大空からのメッセージを

これからも探し続けていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

     ・・・ブログを読んでくださった方々、コメントを寄せてくださった方々、

        

                本当にありがとうございます。

 

 

 

 

家の用事をしながら

大空のことを思う毎日。

 

 

そんななか私は

大空に見守ってもらっている今、

泣いてばかりいる私を大空が見たら、

ぼくはママを悲しませるだけの存在だったと思ってしまうのではないかと

心配になった。

 

 

 

そして

私が今できること・今しかできないことはないか、

あるとすればそれは何かと

ふと考えた。

 

 

 

 

 

大空のためにこれからできること・・・

 


  

そう考えた私の結論は、文章だった。

 

文章に書いて、

大空と私たち夫婦のありのままを

自分のことばで残すこと。

 

 

 

それから、本を読むこと。

 

無脳症について本で調べたり、

死産や流産で子どもを亡くした経験のある人たちが書いた手記を読んだりした。

 

 

 

 

悲しみにおおわれていた毎日から

少しずつ時間の過ごし方がかわり始め、

今の自分にもできることがあったと思えることで

図書館に出かけたり外出してみる気持ちも

もてるようになっていた。

 

 

 

 

 

そして10月初旬、

手のひらにのるほどの小さな骨壷に入った大空を、

納骨。

 

よく晴れた、

風がひんやりと冷たい日だった。

 

 

 

 

退院してからの私は

大空がいなくなったことを毎日毎日実感し、

相変わらず泣いてばかりだった。

 

 

 

妊娠前に比べると少しやせた程度で、

体は順調に回復していった。

 

しかし体が回復していくことが

切なくてしょうがない。

 

 

 

ズボンをはいたり鏡で見るたびに

自分のぺったんこのおなかをさすり、

ここに大空がいたことを思う。

 

ふくらみ始めていたおなかが

元に戻ってしまったことを感じ、

私の体だけこんなに回復していいのかと、

体の回復を喜ぶ気にはなれなかった。

 

 

 

 

人と会うことが怖く、

外に出ることはほとんどできなかった。

 

妊婦さんを見ると憎らしい気持ちになったり、

1000人にひとりの無脳症が

なぜ大空で、この人の赤ちゃんじゃなかったんだと

オニのような気持ちがわいてきたこともあった。

 

 

 

しかしこんなことを思ってはいけないんだと、

自分でさえもオニのような気持ちに気付かないふりをした。

 

 

自分の中のオニの気持ちを潜ませておくことが大きなストレスに感じられ、

また、私の妊娠を知っている人に会うのが怖くて

外出はしばらくできなかった。

 

びくびくしながらゆっくり歩き、

帰宅。

 

A産婦人科と自宅の

歩いて10分ほどの距離を、

この日の私はその倍くらいかかって歩くのがやっとだった。

 

 

 

見慣れたはずの自分の家が

ちがう場所のように思え、

まるで何ヶ月も帰ってきていなかったかのように

ほっと安心できる場所に感じられた。

 

 

 

 

 

 

この日の夜、夫と

我が子に大空(そら)と名前をつけた。

 

大空の無脳症が分かる前から、

夫はなぜか

おなかの中にいるのがふしぎと男の子だと感じ取っていたかのように、

赤ちゃんの話を夫婦でするときは

男の子の話題を口にすることが多かった。

 

 

赤ちゃんの名前について

ふたりで話すことも多かったのだが、

夫は

 

「男の子が生まれたら“空”という字を

 名前につけたい」

 

と、ずっと言っていた。

 

 

夫が名付けたかった“空”の字をとって、

私たちは息子に

「大空」と書いて「そら」と名付けることにした。

 

 

 

・・空から私たちのことをいつまでも見守ってもらいながら、

 空の上で大きく大きく育ってくれるように・・


と、願いをこめて。


 

小さな体でがんばった大空にぴったりの名前だねと言って、

夫とふたりで

また泣いていた。

 

 

 

 

赤ちゃんに名前を付けるという世間では当たり前のことが、

わたしたちふたりにとっては

とても重みのある、

親としての愛情と責任を大空に約束する、

大きな役目だった。

 

-8月20日-

 

朝、いつものように

夫が病室に来てくれた。

 

本来の予定ならば昨日のうちに退院できるはずだったのだが、

体調が良くなかったため

昨日の退院は見送りとなり、

一日退院がのびていた。

 

今日やっと夫とふたりで帰宅できることが

安心感となってひろがる。

 

 

 

早く家に帰りたい。

 

 

 

経膣・経腹の両超音波検査を受け、

今後の過ごし方や大空のお骨のこと、

提出しなければならない書類のことなど

江口先生にいくつか話を聞いて

その後退院となった。

 

 

 

 

とても天気のいい日で、

久しぶりに外を歩く私にとっては

まぶしいほどの晴天だった。

 

 

ゆっくりしか歩けない私のペースに合わせて

夫がとなりを歩いてくれる。

 

自転車をよけるという

普段何気なくしている行動も、

術後でうまく体をあやつれない私には

大変な出来事だった。

 

 

 

 

 

・・知ってる人に会いたくない。

 

 

そんなことばかり考えて歩いていた。

 

 

私と夫が育った地元からは少しはなれた所に住んでいるので、

自宅近くのこの場所で知っている人に偶然会うことなど

今まで一度もなかったのだが、

万が一でも、私を知っている人・・私が妊娠したことを知っている人に

会ってしまったらと考えると、

それがいやでいやでならない。

 

 

 

帽子を深くかぶり、

できるだけ下を向いて歩き、

そしてすれちがう人が知らない人だと確認したいがために

ちらちらとまわりの様子をうかがって

人の行き来にとても敏感になっていた。

 

 

 

私のこの行動は

このあと何ヶ月間か私の日常となり、

 

“帽子で顔を隠し、うつむかなければ外を歩けない”

 

“知っている人に会ってしまう可能性が少しでもある場所には出向かない”

 

というのが習慣になっていった。

 

 

 

そして結局その習慣は、

家族以外の人と会ったり話したりする機会を

術後かなり長い間もてなかったことに

つながっていった。

 

私は夫にもう一度

数時間前の出産時の話をした。

 

 

 

夫は、

私ひとりが痛い思いをしなければならなかったこの数日間

少しでも自分がその痛みを背負ってあげることができればいいのにと思い、

私の体が痛みを味わうのと同じように

自分の心がいつも痛んだ

と言って、

泣いた。

 

 

へその緒がつながっていたのを感じることができたと話すと、

「うらやましい」

と言って、

泣いた。

 

 

そして

ぼくたち夫婦のきずなは赤ちゃんのおかげでさらに強くなったね

と言って、

泣いた。

 

 

 

・・はじめて夫の気持ちを聞いた。

 

 

 

 

私は、

「私たちの赤ちゃんを元気に生めなくて本当にごめんね」

と夫に言った。

 

すると夫は

「そんなこと二度と思っちゃだめだよ。

 得たものもたくさんあったんだから。」

と言った。

 

 

 

 

私たちはふたりとも、

泣いていた。

 

 

 

結婚前も結婚してからも、

夫と一緒に過ごしてきた時間のなかで

ふたりでこんなに泣いたことは

はじめてだった。


 

-8月19日-

 

食欲がわかなくて

朝食は半分ほどしか食べられず、

まだゆうべの麻酔が残っているようで

ふわふわとした気分だった。

 

 

 

8:00 夫と母と義母が病室に入ってきた。

 

夫の顔を見てしぜんと涙が出、

ベッドから体を起こして

私は夫のほうへ両手を伸ばした。

 

「がんばったね」と言って

夫が抱きしめてくれた。

 

 

 

 

夫と母たちに

大空の出産時の話をした。

 

 

 

母と義母は、

私が悲しい陣痛の末に出産したときの出来事を

涙を流しながら聞いていた。

 

同じ女性として、

本来よろこびであふれているはずの出産が悲しみにかわり

我が子の誕生日が

同時に命日になるということを

一緒に受け止めようとしてくれていたのだと思う。

 

 

 

話を終え、

母たちが私の顔を見て安心したと言って帰っていくと

病室には私と夫ふたりになった。


 

もうろうとしているのだが、

赤ちゃんを生んだことは

なんとなく、でもしっかりと認識していた。

 

このもうろうとしている意識のほかに

自分のなかにもうひとつ意識が存在しているみたいに、

訳が分からない部分としっかりと分かる部分がある。

 

 

赤ちゃんがさっき生まれたという出来事は

もうひとつの意識、しっかりと分かる部分で

認識できていた。

 

 

体が重く、

分娩台に強く押し付けられて

埋まっているような感じがする。

 

 

「目が覚めたみたいだね。

処置は無事に終わったよ。」

 

と江口先生が言った。

 

 

私はろれつのまわらない言葉で

 

・・「先生、おなか痛い」

・・「赤ちゃん、どこ?」

 

と無意識に江口先生に何度も訴えており、

そのたびに先生が

 

「大丈夫だから、しゃべらないで少し寝なさい。」

 

と頭をなでてくれた。

 

 

そうだ少し寝よう、と思って一度口を閉じても

またすぐに

 

「先生、おなか痛い」

「赤ちゃんどこ」

 

を私はくりかえしていた。

 

 

麻酔が効いているせいで、

無意識のうちに同じことを何度も何度も口にし、

江口先生が答えてくれて安心しても

次の瞬間にまた同じ言葉を言わずにはいられない。

 

不安でしかたない。

 

 

 

 

 

この分娩台に横になっていることさえ

安心できなくなり、

じっとして少し体を休めるように先生に言われていたが

 

「早くお部屋に帰りたい」

 

と、それもまた何度も私がくりかえし言ったため、

病室に帰ることが許可された。

 

 

 

まだ麻酔が効いている状態だったので、

ひとりで起き上がることも

車いすに移ることもできなかった。

 

頭を上にすると突然

怖いくらいに目がまわり、

体が左右にゆーらゆーらと揺れた。

 

天井が上なのか

床が下なのか

壁がまっすぐなのかどうかも分からないので、

処置室から病室までの短い廊下を車いすで移動するあいだに

車酔いと同じように

車いす酔いをした。

 

 

病室に着きベッドにはいると

今度はベッドに体が埋まりそうな感じがする。

 

 

目をあけていると酔うので

目をつむった。

 

 

そして朝まで、眠った。


 

その後胎盤をかきだす処置が始まった。

 

しかし、

ついさっきまで自分の体を共有していた赤ちゃんが

もうそこにいなくなってしまったことで

とたんに痛みがおそろしくなり、

処置の痛みにたえることができず

早い段階で麻酔をつかってもらうことになった。

 

 

 

体の痛みの連続も

この処置を乗り切れば終わりだったが、

それを我慢する気力は

私にはもうなかった。

 

 

 

麻酔はあっという間に私の体をめぐり、

江口先生が

 

「この麻酔は怖い夢をみるかも知れないよ」

 

と言いながら麻酔薬を注射していたのだが、

その語尾さえさいごまで聞き取れないほどすぐに

私は夢の世界へとんでいった。

 

 

・・オレンジ色の強い光。

・・古代エジプトの壁画のような、人の絵。

・・みどりのグラデーション。

 

つきぬけるようなものすごい速さで

その一面一面をトリップするような、

ふしぎな夢を見た。

 

 

 

 

 

夢から覚めると、

意識はもうろうとし、

頭がグワングワンとしていた。

 

夢のあいだ

ずっと私は声を出していたようで、

それに気付いたのも

しばらく経って耳の聞こえが戻ってきてからだった。

 

 

細く目を開けられるようになると

自分が分娩台にあおむけになっていることが分かり、

ようやく自分の状況を

少しずつ思い出しはじめた。


 

陣痛が始まってから

その間隔が2分半よりも短くならなかったので、

 

「赤ちゃんが生まれる瞬間はもしかしたら

 すごく痛いかもしれないよ」

 

と看護師さんに言われていたのだが、

大空はさいごまで私をいたわってくれ、

その痛みさえ与えずにいてくれた。

 

 

突然出産したことに少し驚きつつも、

つわりを軽くし

出産時の痛みを取り除いてくれた我が子のことを思いながら、

看護師さんを呼び、出産を伝えた。

 

 

 

 

病室でそのままへその緒を切ってもらい、

大空は両手ほどの小さなトレーに横たわって

上からそっとガーゼをかけられた。

 

 

 

 

私は車いすで処置室に移動し、

分娩台にあおむけになる。

 

 

看護師さんが

自宅で待つ夫に出産を伝えるため電話をしてくれ、

江口先生にも知らせてくれた。

 

まもなく江口先生が処置室に入ってきて

 

「よくがんばったね」

 

と言って、

私の足をさすってくれた。

 

 

 

 

 

赤ちゃんは男の子だったと、先生が言った。