なぜ河村市長が愛知県「県民の日学校ホリデー」創設に「名古屋は愛知の植民地ですか?」と反対したのか | 尾張君のブログ 「八若丸記」

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◯県民の日学校ホリデーとは

愛知県が11月27日を「あいち県民の日」としてその一環で「県民の日学校ホリデー」を創設。

愛知県民の日として学校を1日休みにするというもの。

 

◯河村たかし名古屋市長が反対

これにまったをかけたのが河村たかし名古屋市長だ。

 

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「あいち県民の日」に反対 河村たかし名古屋市長 休みの日の名称「県民の日学校ホリデー」も使わず(CBCテレビ)

 

 

 

河村たかし市長「愛知県の日というのは明治時代に名古屋県というのがあり、名古屋県という名前を残すわけにはいけないということで愛知県と、中央集権のシンボル 名古屋の独自性を潰したといいますか」と語った。

 

◯名古屋県は実際にあった。愛知県になった時系列。

明治4年7月名古屋藩→名古屋県。明治5年4月名古屋県→愛知県。明治5年11月愛知県に額田県(三河)編入。

三河分県運動は編入後、明治8年~25年の間に3度運動あり。

 

名古屋県は実際に存在した。しかし、すぐに明治新政府により愛知県と改名されている。

さらに尾張と三河という異なる文化を一つの県にした。現在でも軋轢が生じている。

 

 

◯歴史を見ると河村市長の言う通り、名古屋の独自性を潰した

河村市長の言う通りで、名古屋県が愛知県に変更されたのは、徳川御三家筆頭の尾張藩(名古屋藩)の影響が色濃く、中央集権国家の新政府(薩長土肥)が嫌ったため。

 

◯なぜ新政府は名古屋を嫌ったか

明治新政府(薩長)が徳川幕府を戦争で潰し、後に徳川御三家筆頭の尾張藩も潰した。

 

 

 

尾張藩主・徳川慶勝公の他の三人の兄弟は薩摩・長州(明治新政府)の敵。

尾張藩主・徳川慶勝公と将軍徳川慶喜はいとこ。

明治新政府の朝敵五等級のうちトップ3は尾張藩主・徳川慶勝公と血の繋がりがある。

 

また第一次長州征伐では総督は徳川慶勝公。
長州から見れば、過去に安政の大獄の際謹慎を受けた際、徳川慶勝公を助けようと尽力したが、長州征伐で裏切られたと捉えられていた。

藩主親子の剃髪と長州藩士14名の処刑はかなりの屈辱であったと思われる。

第一次長州征伐で処刑された人数と後の青松葉事件で尾張藩士の処刑された人数が一致していることから相当怨みをもっていたことに違いない。

 

「慶喜征討軍に加わった長州藩は、尾張家の菩提寺建中寺に立寄り、土足のままで乱入し、建造物の装飾金具などを取りはずしてしまった。山田幸太郎」名古屋城青松葉事件 ーと、真相は不明だがこのような話もある。

 

さらに薩摩藩も宝暦治水事件で多くの薩摩藩士が亡くなり借金を積み上げられた歴史がありその管轄であった尾張藩を恨むのもあった。

 

このことから明治新政府は名古屋を潰したかったのは違いない。

 

 

◯尾張藩は明治新政府側についたが、それでも嫌われた

尾張藩は旧幕府VS新政府の戊辰戦争であえて新政府軍に付いた。御三家筆頭にも関わらず、尾張藩主・徳川慶勝公は、尾張藩祖・徳川義直公「王命に依って催さるる事」=朝廷側につけ。という秘伝を守った。青松葉事件という苦渋の決断で尾張藩の幕府側の家臣を粛清さえした。尾張藩が新政府についたことにより周囲の他藩も新政府についた勤王誘引の成果もあった。これにより多くの人が血を流すことを免れた。しかし名古屋は徳川の影響力で強く潰されたのは非常に悔しい。

 

 

王命に依って催さるる事

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尾張勤王 青松葉事件

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◯明治新政後でも名古屋は疎んじられる

明治維新後の話として、名古屋城青松葉事件という書物には 「真相は、維新後、旧尾張家の士族は、官途についても、薩摩・長州閥の連合軍と言われた、明治新政府に入れられず、要職に登用されることがなかった。」とある。

 

内閣や政治家の殆どが藩閥で、軍も陸軍は旧長州、海軍は旧薩摩がトップの人々で構成され、名古屋は御三家筆頭の影響で疎んじられた。

 

 

 

◯疎んじられた名古屋の旧帝大・名古屋大学

教育機関においても疎んじられた。

名古屋は旧帝大、旧制高校八高の中で最も設立が遅い。その前身の旧制高等中学校は存在さえない。明治新政府の薩長は早くからある一方、疎んじられた尾張徳川家の名古屋は遅い。これじゃ政界の影響力も弱い。影が薄いワケである。

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◯本来は藩都の名前、つまり県庁所在地名を県名とする

薩長土肥の正式藩名→山口藩、鹿児島藩、高知藩、熊本藩は県名になった。

名古屋の正式藩名→名古屋藩は県名が潰された。

本来は県庁所在地名を県名とするべきである。

 

◯県名と県庁所在地が不一致な県「賞罰的県名説」とは

宮武外骨の著書『府藩県制史』で出てくる説。

戊辰戦争で「勲功のあった『忠勤藩』の藩名は県名とし、刃向った『朝敵藩』や日和見の曖昧な態度であった『曖昧藩』の藩名の県名は一つもない」とある。

 

司馬遼太郎も、「明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である」とある。

 

「府藩県政史」賞罰的県名説を主張。角川日本地名大辞典、司馬遼太郎、松本清張は肯定。

「愛知県史」この説を紹介した上「旧藩名の継承が障害になると判断した地方官からの申し出によるものが多かった。」と否定。

 

それぞれの県ごとに由来は異なり、この賞罰的県名説は批判が多く賛否両論はあるが、名古屋の場合は明治新政府が名古屋県では名古屋藩(尾張藩)の影響が強いため、改名したのは間違いない。

 

 

 

◯愛知県史の言い分は正しいのか、いやそれは勝者の歴史で大嘘

愛知県史(薩長の藩閥の影響下の書)は、名古屋県でなく愛知県であるのは明治新政府の企みによる処置という説を否定し、旧藩名の継承が障害になると判断した地方官(薩長の藩閥の影響下で派遣された官吏)からの申し出によるものが多かった。としているのはまさに勝者の歴史で大嘘で圧力があったから県名にしたのは明白だ。

 

愛知県史は明治新政府の官吏の影響下にある書物だと言える。

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引用元 レファレンス事例詳

 

愛知県知事一覧

見事に薩長政権(明治新政府)に愛知県は長らく支配されていた。

県知事の出身地を見れば明白。薩長土肥の出身者がほとんど。

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◯県名と県庁所在地の不一致による弊害

県民性という概念があるように帰属意識は都道府県から成っている。内外の人々はその地域単位で特性、民族性を判断している。 けれど、愛知県民にはアイデンティティ、帰属意識が希薄となっている。

 

日本人の県民性 NHK全国県民意識調査 「愛知県人だという気持ちを持つ。」 「そう思う」五八・三%(全国平均六七・四%) 都道府県の順位では44位という結果も出ている。愛知県民の県民意識は相対的にかなり低い。

 

この弊害として愛知県民に行政が指導をしても県民の意識がないため寝耳に水の状態だ。例えば愛知県では交通事故が多発しているので愛知県民は意識しましょうと言っても、県民としての意識はない。

よく愛知の悪いニュースで「また愛知」と見聞きするが愛知県民としての自覚がないので当事者意識も薄い。

一体感がないのである。

 

◯名古屋県を復活させるべき

アイデンティティの確立、県民意識、帰属意識を高めるには県名と県庁所在地の一致が不可欠である。県民意識を持ち、郷土愛を持つためにも名古屋県にするべきである。

 

名古屋市以外の人が正式に名古屋出身と言えるようになるべきだ。

 


 

◯三河民ももっと考えてみて

三河民は名古屋県に反対という意見が確かに多い。これは異なる文化で、民族性が違うからである。しかし愛知県の地名の由来は愛智郡、さらに遡り古代の年魚市県(読あゆち・熱田周辺)を治めていた年魚市県主=尾張国造(尾張氏)の古代の尾張民族の名前に由来している。結局、名古屋でも愛知でも尾張由来の名前を冠していることを知った方がいい。

 

また「三河分県運動」というのがあった。 明治5年 三河は愛知県に編入し消滅 明治8~9年 明治13~15年 明治22~25年の3回。この運動はかなり盛り上がり元老院へ建白書、国会への3度の請願、3万人の署名を集めた。 中央集権化を図る明治新政府の威光に叶わなかった歴史がある。

 

三河民は名古屋県に賛同するか独立するかのどちらにしたほうがいい。

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