幻の犬をたずねて 20
太田 博
赤一枚
「やっぱり、十石犬を飼っているっていう誇りはどこかにあるんさね。この村にいればなんのかんの言っても、十石犬のことで盛り上がるし、客が来て、『いい犬だね。なんちゅう犬?』って聞かれれば、「十石犬だよ」と、自慢気に話すしね。他所へ行っても、犬の話題になれば、『俺んとこじゃあ“十石犬”を飼ってるよ』って自慢しちゃうもんね」
上野村で「岳の下工房」という商品名で木工製品の製造・販売している神田学(57)は、傍らの柴犬の頭を撫でる。
イヌの名は「岳丸」(がくまる)。今井興雄のところから来た「十石犬」である。
岳は、神田が工房を開いている地区名である。上信越自動車道から上野村へ向かうと、長いトンネルが待っている。「湯ノ沢トンネル」である。抜けると上野村。山道を下ると集落が見えてくる。
なおも車を村役場の方向に走らせると、突然、タイヤが音楽を奏で始めた。「メロディー・ロード」とか「メロディー・ライン」と呼ばれる音の出る道路だった。道路面に細い溝が切ってあって、その上をタイヤが通ると摩擦と振動音で音が出る仕組みである。
曲は「雛祭り」。あの ♪明かりを点けましょぼんぼりに…の童謡である。上野村乙父地区に伝わる国指定選択無形民俗文化財「おひながゆ」に因んでいることは明らかである。規定速度で走ると、心地よい正常なリズムが奏でられる。早過ぎると、ゴチャゴチャと不快な音になる。逆に遅過ぎると、壊れた蓄音機(若い人は解らないかもしれないな)のようにだれた音になる。どうやら交通事故防止に役立っているらしい。
丁度、気持ちよく曲を聞き終わった辺りに、細い山道が現れ、登っって行くと工房がある。神田はここで、家具をはじめ、一輪挿しなど小さな木工品を作っている。
60~70メートル四方もある広い敷地に、作業所と材料の木材置き場がある。しかし、敷地の中で最も広い面積を持っているのが「岳丸」の運動場兼宿舎である。金網で囲われ、目いっぱい走り回っていた。
人が好きらしい。近付いてもまったく警戒しない。もちろん、噛むようなこともない。来訪を歓迎するかのようにじゃれて来る。飼い主以外にはなかなか懐かない習性を持つ柴犬としては例外中の例外といえよう。
柴犬は普通、頭の上部や背中の部分だけが茶毛で覆われていて、顎から腹にかけては白毛
であることが大部分だが、「岳丸」の毛並みはほぼ全身、赤毛である。
これが、「赤一枚」と呼ばれ、柴犬として、また十石犬として極めて稀な優良種なのである。
岳丸のもう一つの自慢は、全身濃い茶色に追われた胸の辺りに、白毛で「T」の字の模様が浮いて出ることだ。人にじゃれて前足を上げるとくっきり見える。
「岳丸」は、昼間は工房で主人の神田学と一緒だが、夜間は、車で5分ほどの自宅に帰るので、“ひとり”になってしまう。首輪をしたままだ。神田自慢の手作りの犬小屋の下に深い穴を掘って夜を過ごす。
2.3歳のころ自宅に連れ帰ったことがある。だが、土間に置いた岳丸は、一晩中吠え続け、近所迷惑を気にする結果となった。それ以来、6歳になる現在も人里離れた工房で夜を過ごすことになった。
神田は夜中、岳丸の様子をそっと観察したことがある。
夕方、犬小屋の傍にシカやサル、イノシシなどが現れると、普段とは違った厳しいというか、きつい声で吠える。主人を呼んでいるようである。
朝9時ごろ、神田が“出勤”すると、狂ったように歓迎する。すでに車の音で分かっているのだ。首輪を外してやると、敷地の隅に飛んで行って尿と糞を排泄する。
狩猟をしない神田は、岳丸を滅多に山へ連れ出すことはしない。もちろん、岳丸は山を駆け巡りたいだろう。それを補うのが、岳丸用の広いドッグ・サークルと神田の趣味である渓流釣りのお伴である。ヤマメを追い掛けて神流川の渓谷を渡り歩く神田の後を喜々として付いて行く。
岳丸は今、花嫁を探している。
「いい雌犬がいるといいのだが…」
十石犬の血を持ついい仔犬を産んでほしい―。神田の願いでもあり、今井興雄の夢でもある。
(止)
(次回は5月掲載)