「僕らが夢の果てで掴む現実を

全部最後の日まで受け止めるだけの定め」



バンドを始めた頃からそれなりの覚悟は持っていたように思う。

上に書いてあるのは岡山にいた時に作ったrhetoricという曲の歌詞なんだけれど、それが今追いかけてきて、捕まった気分。


多分、将来的にめっちゃいい感じになるか、

夢と現実のギャップにやられて、終わるか

そのどっちかなんだろうなーって。

このころから俺にとって夢ってのは叶えるものではなく、その中に住むものって言う感覚を持っていた。

バンド活動は現実的な物を突きつけてくるけど

それ以上に夢のような世界だった。

目標意識がぼんやりしてたのは弱みかもしれない。

したいことはたくさんあっても。


まぁ、なんだ

暴想はとりあえず終わらさにゃいかん

所属している稜という存在を自分自身で殺してやらんと次に進めん

次があるかどうかわからんけど。




去年、ウラナラトスという歌詞を書いた


時間を夢に費やしたこと、

一般的人生とはかけ離れた生活内容を選んだこと、

自分には人とは違う何かがあると信じて進んできたこと

そして、

そこそこの歳になってしまった自分と

成功体験以上に失敗してきた弱さを改めて

自分に釘を打った。

それを歌うことによって更なる、音楽に対する自戒を極めていった。

時は等しく過ぎる。

過去の発言や言動その全てを回収しながら

自分に返ってきて、生産をするように訴えかけてくる。

この選択が間違いだとか正解だとか、そんな事ではなくて

受け止める必要がある事だと

言われている、過去の自分に。









昨日、住んでいる建物の玄関に、

傷だらけの鳩がいた。

頭から血を流して隅に寄って震えていた


ゴミ置き場のゴミが派手に荒らされていたから恐らく

烏にでも虐められたのかと思う。


昔、小学校のころ道端で死んでいた生き物を見るたびに、家近所の公会堂の裏庭に勝手に埋めるのが習慣だった。(多分大家に知られたらアウト

田舎だから生き物はたくさん、そこらへんに死んでいた。


そのころの感覚を鳩を見た瞬間思い出して

まだ生きてるから保護しなきゃだとか

餌?水?消毒?とかいろいろ浮かんだけど

都会の鳩なんてぶっちゃけ害獣で

保護するのも違反らしいし、

地味に部屋のベランダにも迷惑かけられていて、

しばらく震える鳩を目の前に考えた後に放っておいた。

弱っている姿を見て確かに揺さぶられた自分と

大人になっていろんなルールを知った自分とのギャップで頭の中がざわざわした。


今朝、玄関にいた鳩とその周辺にはパン屑が転がっていた。食べたのかどうかは分からない。

俺が選ばなかった餌やりをしている人が存在していた。

働いて帰ってきて、いつもの清掃員さんが玄関を掃除していた。

そこには鳩の姿も、パン屑もなかった。

いつも通り清掃員さんに会釈だけして通り過ぎた時に

ここにいた鳩がどうなったかを聞こうとして

やめた。

聞けばよかった、かもしれない

わからん。


別に自分の現状と何か関係のある話でもなければ

生き物に対する何かを伝えたいわけでもなくて

ただ、周りにも、自分にも残酷に時間は過ぎて

変化して、いい悪いの基準や常識だとかがのしかかってくるなと感じた。



今、伝えたいことってなんだっけな。

多分それがこんなにぼやけなかったら暴想は俺一人でも続けていたのかもしれない。

ただ、残した曲は正義だと思っていたい。

正義ってか、真実になるのか

"有る"からな、そこに。




バンドが終わる前の日記だからな。

こんなもん読みたく無いやつは読まんだろうし

好きにだらだら書くよ。

俺が死生観に重きを置いて歌詞を書くようになった理由とかもいずれ話せたらと思う。