人生とは不確実性の連続であり、複数の因果関係が複雑に絡み合った結果成り立つものだと思います。
もし僕があの時、異なる選択をしていればどうなっていたのかという分析は不可能であります。こうなっていたのかもしれないという想像は可能かもしれませんが、僕という存在が2人存在しない限り実際にどうなっていたのか特定することはできません。
ですから今こうして上智大学応援団員として楽器を吹き、みんなと一緒に活動してきたことが自分の中で最適な結果であったかを断言することは難しいと思います。ですが応援団として大学生活をおくることができたことが幸いであり、皆さんには心から感謝しているということは間違いありません。あくまで想像の域ですが、これが最適なのではないかと思うことも多々あります。
大学入学前、自分は平穏でゆとりある大学生活を送るものだと想像していました。希望を持つこともなければ絶望をすることもなく感情を一定に保って平坦な生活をしていきたいとも思っていました。それが僕にとって幸せだと思っていたからです。しかし何を思ったのかよく不可思議な選択をすることがあり、その結果として当初の見込みとは程遠い生活をしています。
大学に入って最初の1年間は思い描いていた通りのゆとりにまみれた生活でした。しかしそのような生活を続けていくうちにだんだんと不安が募ってきました。僕はMなのかも分かりませんが、結局その生活は自分には合っていなかったのだと思います。そしてそんな中私を救ってくれたのは2年で行ったフレマンで声をかけてくれた応援団吹奏楽部の先輩方でした。応援団のブースに行ったら最後、先輩の巧みな話術と応援団が持つ独特の雰囲気によって気がついたら団に忠誠を誓う団員になっておりました。最初の1年は僕が唯一経験した例年通りの応援団の1年でありました。もともと高校の時点で楽器が上手なほうではなく、コミュニケーションが得意ではなかったこともあり不安であったり緊張することもありましたが、体育会の部活動さんに向けての応援やほとんど全ての学校行事で演奏させていただき、バラエティ豊かで社会的・文化的な生活ができました。当時の吹奏の先輩は皆とても優秀な方でしかも聖人のような方ばかりでした。どうやって生きていたらああなれるのかと今でも疑問に思います。
1年が経ち先輩方が引退され僕らが準幹部になった時、吹奏楽部に幹部はいませんでした。2年目にして吹奏楽部の最上学年となり、初めてのイベントとなった春合宿ではどのように運営をしていくべきか仲松といろいろ話した覚えがあります。しかし、ちょうど新体制が始まろうとしていた時にパンデミックが始まりました。
僕が吹奏楽部内において吹奏楽部長を務めた時期は仮であった準幹時を含めてコロナ禍の2年間にわたりました。異例の長期政権となったわけですが、皆さんはこの2年間の吹奏のガバナンス、どうだったでしょうか。力不足で頼りないと感じることも多かったと思います。僕自身「もっとこうしておけばよかった」「これは愚かだった」と思うことは今でも多くあります。実際に当時の僕らの力でできていたかはさておき。しかしここまでこうして吹奏楽部が健康に応援団の活動を全うできていたのはひとえにリーダーやチアの同期、先輩、後輩、そして周りで支えてくださった方の大変大きなお力添えがあってのことであると思います。その中でいろいろな人に迷惑をかけてきたと思いますが、そのたびに優しく正しい方向に導いてくださりありがとうございました。
最後の1年では後輩たちのおかげで吹奏楽部は大きく繁栄することができたと思っています。僕が心配するようなことはないです。あなたたちならきっと人々の見本となり、そして希望となる豊かな団生活を育んでいけると思います。
皆さんのご健勝と上智大学応援団の一層の発展を心から祈ると共に来年の1年が皆さんにとって明るい未来となることを願って私の引退ブログとさせていただきます。ありがとうございました。
吹奏楽部4年団員 河田恭吾