すごく微妙なことだが、あえて書く。
今日、2月24日は、ロシア軍のウクライナ侵攻から1年の日。
朝から「ウクライナの悲劇」をずっと振り返り、報道している。
これは、もちろん悲しい事実だ。
だが、しかし、今、その悲劇に悲しんでいるこの瞬間にも、ミャンマーで殺されている人、パレスチナで殺されている人、シリアで殺されている人、ウイグルで殺されている人、ソマリアで殺されている人の悲劇を、私たちは共有できているだろうか?
あるいは、インドやパキスタンで、名誉殺人の名の下で親や親戚に殺されている少女を想像しているだろうか。
我々の想像力には自ずと限界がある。それは、たぶん精神を崩壊させないためのリミッターなのだろう。あらゆる死や悲劇に心を痛めていたら、確かに一歩も歩けないし、生きてさえ行けないかもしれない。
そして、こうした、知られない死、忘れられた悲劇は、いつの時代にも数限りなく存在していた。
ただ、今の時代、残酷なのは、報道される死と、されない死のコントラストがあまりにもくっきりとしていることである。
報道されない死は、たぶん存在しない死であり、命である。
ウクライナだけを特別視するな、と言いたいわけでもない。これは仕方ないことでもあるのだろう。
ただ、そういう不条理があたり前に存在することは、心の端にいつも置いておかなくてはならないと思う。
私たちが生きている世界は常にそんな世界なのだ。

