俗なる言葉とアート的な言葉 | あくせくしたってはじまりませんぜ

あくせくしたってはじまりませんぜ

とか言いながら、けっこうあくせくしちゃってるんですが。
まあ、できればまったりと生きたいなあ。

 

率直に言うとアートが苦手です。

 

自分が演劇をやっている関係で、演劇関係のチラシとかホームページを見ることがけっこうあるのですが、そこに書かれている言葉が、絶望的にハズい。

「劇空間との邂逅」だとか「耐えられない絶望を弄ぶ」だとか「やさしさと殺意のアンビバレントな関係性」だとか「成立し得ない奇跡の沈黙」だとか‥‥何でこんな言葉を使うのだろう? 大げさで、もったいぶってて、文学かぶれ? 詩人気取り? みたいな言葉が並ぶことが多くて、正直「恥ずかしくないの?」と思っちゃうし、「こんなこと書くから誰も見に来ないんだよ」とか、偉そうに思っちゃう。

まあ、この手のお芝居を見に行くことはほとんどないのだが、何かの間違いで見たりすると、思いの外通俗的で薄っぺらな作品で、「オレの方がよっぽど芸術家っぽいじゃん」とか思うことが多かったりする。そして、作者のインタビューの言葉なんかも安っぽかったりする。

 

この硬質な言葉、アート的な?言葉への信仰って何なんだろう? と考えてみると、私にも思い当たることがある。

それは自分が十代に書いていた文章たちだ。恥ずかしいぐらいに文学青年だった私は、確かにこういうテイストの言葉を好んで使っていた。硬質で難解であることに自分の全存在を懸けるみたいな、そんな時期があった。まあ、言わば限りなく中二病に近い晦渋趣味ってやつだ。

そして、思ったのだ。「中身がないから、言葉の鎧で武装するしかなかったのだ」と。

そして、ある人の「難しいことを簡単に表現するのが一番難しい。きちんと理解できていないと簡単には書けないから。」という言葉に出会って、目からうろこが落ちた。

 

今は、当時に比べたら、多少は中身が身についたように思う。少し複雑な事も考えられるようになったような気がする。

だから、思うのだ。

なるべく平易な言葉、わかりやすい言葉で書きたい。だって、伝わらなければ、それは表現ではなく、言葉ですらないから。

とか。

 

誤解のないように言っておくと、「難解=悪」と言っているのではない。思想のスタイルとして、あるいは文体として難解にしか書けないものは存在する。ただ、必要もないのに虚仮威しで難解を気取るのを否定しているのである。

晦渋趣味は、「理解されないこと」を「自分のオリジナリティ」の証左と勘違いしているのだと思う。だから、「わかられてたまるか」と意地になるのだ。確かに、独創性が高すぎて、理解されにくいということはあるが、理解されないことが独創性や高尚さを担保するわけではない。

 

若者が孤独や孤高を気取る(表向きは「つらさ」「淋しさ」を嘆くが)のも同じ構造だと思う。いやいや、その気負いやツッパリを捨てたら、君なんかすぐに理解されるし、友達もすぐにできるよ、と言ってやりたい。

更に言えば、客が少ないことを尊ぶのもやめた方がいいと思う。もちろん、観客動員が多ければ偉いということでもないが。

 

あ、それでもう1つ思いついた。

歌舞伎の人が「ワンピース」なんかの新作に取り組むと、やっぱり疑問の声とか非難もあったりするわけだが、「私共は別に高尚な芸術をやってるわけではございませんので」とインタビューで言ってたりすると「ああ、この人たちには勝てないなあ」と思ってしまう。

演劇人は、どうしてあんなに「芸術だ」「アートだ」としゃかりきになって言いたがるんだろう? 「しょせん見せ物ですから」とか、もうちょっと余裕かましてもいいんじゃない?(やせ我慢でもいいから)