たぶん月並みな意見に聞こえると思うけど、今一番大切なことは「きちんと遊ばせること」なんだなと痛感します。
「遊び」で得ることは、我々が今まで何となく思ってきたことよりずっとずっと大きいんだと感じています。認知能力や状況判断、表現力、対人関係、対人距離、コミュニケーション能力等々、基礎的な「人間力」のほとんどをここで学習していたのでした。
だから、今、子供を育てていらっしゃる方々は、何にも優先して、この子供が「遊べる状況」を確保してあげなければならないのです。「遊び」を阻害する状況を全力で排除しなければならない。「早期教育」なんてバカなことを言ってる場合じゃありません。そんなものをやってるヒマがあったら遊ばせなさい。それこそが本当の「早期教育」なんだから。
そして、新井さんの指摘の通り、そのような基礎的な「人間能力」は、今は残念ながら「放っておいたら勝手に身につく」のではないのです。なぜなら、現代の子供の置かれている状況では、放っておいたら「うまく遊べない」のですから。
高校生とか見てると、最近の子は本当に遊ぶのが下手です。スマホやゲームなしに遊ぶことができない。自分たちで勝手に時間を潰すこともできない。特に男子。それで、そういう遊べない子に限って、「好きなようにやっていいよ」と言っても、肝心の「好きなこと」がなかったりする。「やりたい遊び」も「進みたい進路」も「なりたい職業」もなかったりする。わからなかったりする。
教師をやってる人なら経験があると思いますが、「君は何がやりたいのかな?」という面談の質問で「別に」とか「特にない」とか「わかんない」という答えを受けることがほんとに多い。これは深刻な問題です。「やりたいこと」=「欲求」の欠如とは、すなわち生物としての「生きる力」の欠如なのです。草食系というのはそれを象徴しています。彼らはほんとに異性にも恋愛にも感心が薄い。生物学的に言えば、性欲の衰微というのは、大変なことです。性欲は生物の欲求の根幹ですから。それはすなわち種の滅亡を意味する。
だから、繰り返しますが、大人たちが今すぐにやるべきは、「きちんと、まともに遊べる状況」の確保です。それを阻害するものは何が何でも排除しなければならない。さっきの「早期教育」はもちろん、目下の最大の阻害要因であるスマホとゲーム。これは本気で国の施策として年齢制限をしなければならない。大げさに言ってるんじゃない。国家の、人類の危急存亡の危機なんです。
「遊べない」「やりたい遊びがない」という点で言うと、最近の大学生(特に難関校)の連中の不器用な遊び方は象徴的ですね。酒飲んでひたすら羽目を外すとか、乱交パーティーまがいの乱痴気騒ぎなんかは、まさに「ちゃんと遊べていない」ことの証明に他なりません。
今こそ認識を一変させなければなりません。丸山真男ではありませんが、「遊び」を「である」から「する」にカテゴライズし直さなければなりません。
すなわち、(有意な行動を)何も「しない」、あるいは、単なる自然「状態」=「である」とみなされている「遊び」を、積極的な目的行動=「する」ものとして捉え直すのです。
昔、「人は、人間であるのではなく、人間になるのだ」と言った人がいました。そして、その場合の「人間になる」ことの意味は、ほぼストレートに「教育」と結びつけられて来ました。「遊び」はあくまで「である」側の存在だったのです。「放っておいても人間にはなれない」の自由放任の象徴的存在だったのです。
それ故に、世の効率主義者たちは、「遊び」を無駄、無意味な時間と考えます。だから、その「空き時間」に、早期教育やら、英語学習やら、お稽古事をぶち込んで、埋めよう、「遊休地」を有効活用しようとするのです。そうしないと「もったいない」と考えるのです。
だから、その認識を逆転しなければなりません。「遊び」は「何もしていない」のではなく、すごく「している」のだと。ひょっとしたら、いわゆる「教育」以上に「人間になるため」に重要なファクターであり、「教育」以上に教育的な積極的営為あると、認識を転換しなければならないのです。
きちんと勉強していないので間違っているかもしれませんが、まさにルソーの「自然に帰れ」です。かつて「遊び」は、子供の自然だったかもしれないけれども、今や、獲得すべき自然になっているのです。そう言うと、なんだか高層ビルの屋上の緑地化計画みたいで「不自然」で気持ち悪いんですが、そんなことを言っている余裕はないんだから、仕方ないんです。

