大江健三郎が亡くなった。
まあ、年齢的に予想されなかったことではない。老衰らしいし。
私は正直言うと、大江はほとんど読んでない。ごく初期の「飼育」とか「死者の奢り」なんかはおもしろいなと思ったし、「沖縄ノート」とかは読んだけど、まあ、読者なんてとても言えない。一応、長編もいくらかは持ってるんだけど、持ってるだけ。ああ恥ずかしい。
だから、自分のことを完全に棚に上げて書く。
私は、今学校の図書部という所にいる。司書さんと一緒に学校図書館を管理する校内分掌だ。
それで、「亡くなったから、一応、大江健三郎を何冊か並べません?」と言って、図書館内を探して驚いた。
本がない、のだ。大江健三郎の本が置いてない。単行本もないし、新潮文庫も1冊もない。あわてて司書さんと探して、何とか「現代日本文学全集」みたいな本1冊と、エッセイ1冊とだけが発見された。
「イマドキ大江なんか読まないだろうしな‥‥」とは思っていたのだが、「沖縄ノート」さえないんだねぇ。
このことと関係あるような、ないような話。
おなじみ、ノーベル賞不受賞者の村上春樹さんが、久しぶりに長編小説を出すらしい。また本屋に行列とかできてニュースになるんだろう。
この現象については、ずっとずっと前から不思議に思ってる。
村上春樹って、どう考えても一般向けベストセラー作家じゃなくて、マニア受けするタイプの小説家だよ?という違和感を持ち続けている。そもそも純文学で、エンタメ小説じゃないし。
この「純文学」というのも「純喫茶」並みに死語になっていて、それはそれで良いことだと思う一方で、ちょっとマズいんじゃないの?とも思う。
というのは、村上春樹はベストセラー作家になっちゃったものだから、当然あまねくいろんな人が読むわけで、その「純文学」なんてものに全く縁のない人々も当然読むわけで。もちろん読んでも全然いいんですけどね。
それで、アマゾンなんかに、すごくとんちんかんなレビューがあふれたりする。
たとえば、
「村上春樹はおもしろくない。オチがない。」
うーん。純文学にオチを求められてもねぇ。
さらに、もっとすごいのは、
「村上春樹は、そもそもノーベル賞に値するような作家ではない。」
なんてのもあって、「どうしてあなたがそんなに偉そうに言えちゃうの?」と思うし、「だったら、どんなのがノーベル賞に値するのかなあ? 川端康成とか大江健三郎とか読んだことある?」とかとか、意地悪く思ってしまうのでした。
まあ、たいていの人は、いわゆる純文学といったら、学校で習った「羅生門」「山月記」「こころ」「舞姫」止まりなわけで、仕方ないといえば仕方ないんですけどね。
それに、そもそも「ノーベル文学賞って必要あるの?」とも思ってたりもするんですけどね。
だから、今回「大江健三郎フェア」みたいなのをちょこっとやる本屋さんもあるだろうけど、まあ、すぐに終わっちゃうだろうね。そのぐらいは書店の人もわかってるだろうし。
それはそうなんだけど、図書館に大江健三郎の本がないってのは、どうもねぇ。そういう時代なんだなあと改めて思いました。
【追記1】
思ったんだけど、
「ノーベル文学賞にふさわしい(ふさわしかった)日本人小説家は誰だと思いますか?」
というアンケートをヤフーとかで一度やってほしい。
さすがに「東野圭吾」と書くのは躊躇するかもしれないけど、たぶん「司馬遼太郎」じゃないかと思うんだよね。圧倒的に三島を押さえてね。
【追記2】
大江健三郎の講演を数回聞いたことがあるんだけど、あの人、なぜかジョーク、ギャグを言いたがるんだよね。(フランス文学のユーモア、エスプリ文化?)。それが、まあ、想像通り、どれもが寒くて悲惨なんだけど、でも、聴衆はそれを「暖かく受け止めてささやかに笑う」という様式美的な世界が成立してて、素人の私は困惑するというか、何とも言えない気分になったことを懐かしく思い出す。
