運が悪けりゃ死ぬだけさ!変人と言われても自分の生き方しかできない長老のブログ

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地球は動物たちみんなのもの。人間だけが特別な存在じゃない。だから地球環境を壊さないように、有機農業やタイ古式マッサージ、ダブルヨガマッサージのレッスンなどをしながら、ネコ数十匹と暮らしているTTMAグループ長老のブログです。

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「自由」とは、他人から強制されて人生を型に当てはめられてしまうことなく、自己の責任において自由に自分の人生を選択できることを言うのだが、「他人のことを考えないで利己的に生きるのも、自己都合で周りに迷惑をかけていようが好き勝手にやることは私の自由だ」と勘違いしているバカが多い。

「平等」とは、人間はすべて基本的な人権があって、格差や差別がなくて、人が自由に意見交換できる社会を保つために「平等」があるはずなのだが、「平等こそが正義だから、他人の指示には従いたくない」という屁理屈をこねるバカがいる。「平等こそが正義なのにあいつばかり得しているという妬みやひがみ」を正義だと思い込んでいる勘違い野郎もいる。現在の民法において、基本的な精神は「個人の尊厳と両性の本質的平等」であり、男も女も平等であるという考え方である。つまり、両性は本質的に「平等」であって「対等」とは定義されていない。

「平等」は、差別がないことだが、「対等」は、二つの物の間に優劣上下の差がないことである。「対等」とは、全く同じ作業を両者が担うことではなく、役割を分担して、総合的に対等な権利と義務を負うことである。だから、それぞれ分担した分野においては、どちらか一方が主導権を持つことになり、主たる発言権を持ち責任を負うことになる。そもそも、違う人間であるから全ての面において「平等」であることなど実際には不可能であり、民法において「本質的平等」と表記してあるのはそのためである。

「公平」とは、公に見て、扱いが平らであって、第3者から「えこひいき」のない状態を言う。つまり、社会的な規範において、平らに扱うことを言う。

「平和」が大切であるというのは、戦争や紛争がなく、世の中がおだやかな状態であることを示す社会的な規範である。「平和」であることが一番だからという理由付けをして、面倒くさい問題からすーっと逃げて、自分に火の粉が降りかからないようにしている卑怯者がいる。そうした卑怯者は「平和主義」という名目で「自分だけが大切だ」という利己主義の言い訳をしている。

「弱者」の味方をすることが正義であって、「強者」は常に悪者であるという単純な思考は、物事の本質を見ようとしないバカの特徴だ。本来、物事それ自体には「正しい」「間違っている」の別はない。それの別は、その物事を取り囲む状況の中で変化するのである。つまり、視野の広さやスケール感によって変化するものであるため、取り囲む枠をどう決めるかが答えだということになる。

現在の日本において、物事の本質を見ようとしない連中は、決して少数ではない。この連中は、ひとつの物事が次にどのような影響を与えて、物事がどう進むのかを想像することがない。他人の立場を理解したり、他人の気持ちを想像したりすることもないので、結果的に自己中心的な人として映るが、要するに問題は、「想像力の欠如」が原因である。想像力がない人は、自己中心的な性格に陥ることがほとんどで、仕事で求められたことが理解できないことや、気づかないうちに誰かを傷つけていたりすることが多くなるものだ。だから、自己中な人は、「周りから疎まれた経験」から、周りと協調しようという気持ちが次第に減少していく。つまり、人の話をきちんと聞こうとせず、間違えを犯しやすく、孤立して失敗するパターンにはまる。自分に対する自信も生まれない。意固地になっているだけなのに、孤高の人として扱われようとすることで、自己の尊厳を守り、プライドを保とうとする。こうした独りよがりや強がりを身に着けた利己主義者は、「どうせ〜できない」「結局無理だ」という考えでしかないので、他人の意見、指摘、アドバイスに耳を貸さない。そうして、徐々にトラブルメーカーとなっていく。

人は、幼い頃から厳しい指摘や指導を受けた経験が少ないと、自分を疑うことが身に付かず、過度な自信を持ってしまう。自分の完璧さに心酔し、他者への関心が薄くなり、「完璧な自分は何の問題もない。私が周囲に対して悪影響を与えているはずがない!」という考えで日々を過ごし、他者への気遣いが身に付きにくくなる。失敗を失敗と思わないので、他者の苦しみに寄り添うための経験値が不足する。「自己防衛本能」は誰しもが持っている危機管理能力だが、時に「気付かないふり」というスルーする回避方法が習慣化し、条件反射的にこれを行うようになる。要するに「周囲に関心がない」状態を常に作って身を守っているわけだ。つまり、これは「逃避」の賜物である。当然ながら、「気付くこと」の大切さは理解できず、言われたことしかできない気の利かない人が出来上がる。

社会を構成している人間は、何かしらの集団に帰属しているものだが、こうした秩序を乱す「厄介者」が増殖し続けている。「日本人の精神性」の崩壊は、3S政策による「利己主義」の押し付けから始まった。法治国家という名のもとに、「疑わしきは罰せず」という理屈が、法律さえ犯さなければ何をしてもよいという価値観が道徳を破壊し民度を低下させた。そして、日本国民の多くは、常に自分の都合を優先して、金のことだけ考えるようになった。道徳なき社会は闇である。ひとりひとりが「利己的である」ことから脱却すれば、新たな視点に気づき、視野が広がる。それが成長するということである。このままだと、日本社会はますます低迷し、衰退し、消滅するかもしれない。目覚めてください。利他の精神を持つことが自分も幸せになる方法であることを忘れないでください。