初夏の風が山の稜線を渡っていく頃、
村の郵便受けに一通の封書が届いた。
差出人の名は、ナンタワン。
——姉の、本名だった。

母は手を止めたまま、封を開けることができずにいた。
指先が震えて、紙の端が小さく折れた。

代わりに、私はそっと封筒を受け取った。
中には、淡い紫の糸で縫われた小さな布片と、
にじんだ文字で綴られた数行の手紙。

「みんな、元気ですか。
夜の光は強すぎて、時々、自分を見失いそうになります。
でも、刺繍をしていると心が落ち着くの。
あの丘の風と花の匂いを思い出せるから。
もうすぐ帰ります。
もし帰れなくても、私の祈りはこの花に託しました。」

それだけだった。
日付も、場所も、書かれていなかった。

母は手紙を胸に当て、静かに泣いた。
父は何も言わず、外に出て煙草を吸った。
その背中が、風に溶けて見えなくなった。
弟はまだ幼く、ただ空を見上げていた。


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彼女の暮らすモン族の村から山と空を臨む
他国の旅人には美しい景色だが当人の暮らしは厳しい

夜になり、私は灯りの下でその布片を広げた。
白い花の隣に、淡い紫の花が寄り添うように縫われている。

——まるで、姉と私のように。

指でなぞると、糸の温もりが伝わってきた。
何度も針を通した跡。
それは、遠く離れた街で、
姉がどれほどの孤独と向き合ってきたかを物語っていた。

次の日、私は布片を持ってドイトゥンの丘へ向かった。

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ドイトゥンの丘の上に佇む庭園 北国の女性の祈りの拠り所となっている

王妃の刺繍が並ぶ展示室の隅に、
そっとその布を置いた。
窓から差し込む朝の光が、紫の花びらを照らす。
まるで姉が微笑んでいるように見えた。

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シーナカリン王妃の遺品。
ドイトゥンの丘の上で刺繍を愛した。

丘の上には、白い花が一面に咲いていた。
風が吹くたび、花々が一斉に揺れる。
私は小さく祈った。

「もう、苦しまなくていいよ」

声に出した途端、涙が頬を伝い落ちた。

そのとき、どこからか蝶が舞い降り、
姉の花の上にそっと止まった。
それは一瞬の出来事だったが、
心の中で何かが静かにほどけていった。

——姉の祈りは、確かにここにある。
私はそう信じた。

帰り道、空は群青色に染まり、
遠くの雲の切れ間から光が差していた。

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群青色の空に浮雲が現れ、後光を照らす

白と紫が混ざり合うような光だった。
私は胸の中で、姉の名をもう一度呼んだ。
そして、微笑んだ。
それは、長い悲しみの果てに生まれた、
最初の“希望”の笑みだった。