今の若い子たちは少しかわいそうな時があるように思う。
記録媒体が明確なものとなり、その発言のひとつひとつが
あらゆる場所で刻まれる。
もちろん
写真、言葉、感想、言葉のやりとりが残るのは、僕は良い事だと思う。
写真も残せなかった貧しい時代や
写真が残らなかった大惨事や
そんな事を思うと
人がひとつひとつ生きた証が残るのは本当に良いことだと思う。
けど
SNSなどが普及しすぎて、それがもはや公の空間であっても
人は麻痺して、まるで個人でメールのやりとりをしている感覚とごっちゃになって、自分自身の評価を陥れる結果になってる事が多いように思う。
そこで怒鳴るのは、あるいは怒鳴るのこそは「正義」と捉えるのは個人の自由だけど、実は周りは苦笑いしている。
僕も三人以上のメール、SNSの場は「公」としているし「公」としてもついつい噛み付いた文章を書くことは多いし、書く前には葛藤して葛藤して葛藤して選択をして書いている。
最近コメント返しをなるべくしなくなった。
普通に楽しくやりとりできる人にはホントに申し訳ないのだけど
どうしても噛み付いてくる人、どう答えてよいのかわからない人、そんなコメントをして何がしたいの?と思う人がポツリポツリといて
申し訳ないけど無視をする事にした結果、楽しくやりとりできる人に犠牲になってもらった。
噛み付いてくる人は数人ブロックした。
なぜならば
「公」としている場は舞台であって、それを見ている観客がたくさんいる中で、一人わめいたり、一人変な行動を取る不思議ちゃん気取りがいると、無視をするか、度が過ぎれば「場」からつまみ出すしかない。
話が逸れてしまった。
ツイッターなどを見ていると若い子たちがよく噛み付いて場を荒らしている姿を見る。
演劇祭なんてあるととにかく荒れる。
(そこに大人が乗っかると、もうその大人さんには人生を諦めてもらうしかないと思うが)
若い子たちのその時の言葉は記録される。
そしてせっかちな大人たちに人格を決定されてしまう。
僕はそれが勿体無いと思う。
僕たちが二十代の頃は、今のような記録媒体はなかった。
記録がないから、その言葉たちは、受けたもの、発信した人の相互理解があれば風化して次に進める。
時には「そんな事言われたっけ?」なんて笑う事もある。
僕たちも若い頃は、集まったらもっと酷い発言してたもん。
どこにも残らなかっただけ。
残ってないから勝手に忘れて浄化させて、自分はちゃんとした大人であったと錯覚して若者を嘆いているだけ。
でも今の若い子たちの、まだどうしても感情に未熟な発言はずっと残ってしまう。
僕は、その時その時に周りとバランスが取れなかった言葉は、その時のものとして次のリズムに行けばいいよ、と思う。
自分のその時の言葉に決して意固地にならずに
もし世の中とバランスが取れていけるようになったら
「色々あって成長しました」
で済ませていいし
「あの時はそう思ったんやもん」
でいいと思う。
ギターを毎日毎日毎日毎日欠かさず弾けば、十年後に(センスの有無は別として)ある程度弾けるようになる。
それを弾けなかった頃の事を引き出して「お前弾けないやん」なんて言ってくる大人がいれば、そんな大人は脳内で抹殺すればいい。
生きることは毎日毎日毎日毎日欠かさず繰り返されるんだから。
子がいない少年少女が、いつか子を産んで父と母になればもっと成長するように。
人間は自分にだけは嘘をつけないから、嘘をつけない苦しみから、いつか自分の人格を冷酷に狂わせるから
若い子たちは、どうか「今」発信した言葉や行動に変に縛られず、変に真面目にならず、変に責任取らず
二十年後に深夜のラブレターに苦笑いすればいいと思う。
*犯罪じみた異常な発言や、人格に傷を残す異常な感情などは別の話。
そして老害たちの狂犬じみた吠えも別の話。