ども
他人のエッセイを読んでたら久々に書きたくなったので

いわゆる自分語りなのだが
ふと 自分て幽霊みたいなモノに見えたりする
実在はするけど見えない
もしくは見えるけど触れないみたいな

自己主張は強い方だと自覚しているが
その反面ソレに対しての興味や感心は実は低い
自分というモノをカバーする上で主張はするが
実際はどうだってよかったりする

私の事を他人は『変な人』『不思議な人』と評してくれる

専門学校時代に旧友と話してて「変人の巣窟にいるんだがどうやら先輩が言うには私は今までで一番らしい」と言うと
旧友は「そりゃそうだろよ」となんも疑問も無いよと言わんばかりに返すのだ
不服であるw

私からしたら私はなんて単純なんだろうか
と思っていても他人には解りにくい部分が多いのだろう
昔から変わってるといわれ続け
変わってるらしい自分というのを受け入れてしまい

なんなら変人でいんじゃね?
とまで思い至るまでになってたり
一時期は『自分は一般人』
というのを装うとした時期もあったがいつの間にやら逆転してて
天然の変人を一般人に矯正しようとしたが結果人工的な変人と化したようなよく解らん存在になった気がする


ただ結局他人が自分を変人と呼ぶなら変人で良いやどうせ
という感じ
否定も肯定もせずそういうものだと受け入れている

ソコに自分の意志が有るとしたら『受け入れた』事だけだろう


それから コレも専門学校時代に関係するのだが
『親爺』というアダ名もその時の飲み会でついたアダ名である
齢二十歳の時である

その当時から人より考え方が堅いと言うかオッサン臭いのは自覚してて
その飲み会でもオッサン的な行動をしてたから致し方ないとは思う

ソレからオッサン・オヤッサン・オヤジ等の関連する呼ばれ方をされるのだが私としては否定はせず
むしろ受け入れてて
なんなら広めていた

私自身 ちゃん や さん くん以外でのアダ名は無く
私を称して認識しやすいアダ名など無かったからむしろ好都合だった

その後いろんなアダ名を仮称するがコレほど認識しやすいモノは他には無いように思う

コレが自分で考えたアダ名であったなら色々な人から認識してもらう事も無かったはずだ


ソレもコレも私が私自身に感心が少ない事が大きい気がする

どうだって良い事ではあるがどうでも良くない
どうでも良くないが実はどうだって良い
という矛盾の中にあるので受け入れる事に実は抵抗が無く
他人がそう思うのであれば自分はそうなんだろう
とどこか他人事なのである

私は他人と通話(主に異性)と喋るのが好きでその時の自分はキモいと言われても不思議ではない程テンションが高くイキイキしてると思う

配信なんかで喋る時もテンション高めで明るめに話してはいるが
他人と喋る時はその比ではないと思う

他人と話す時が一番解りやすく自分を表せるからなのかとも思うが


結局他人が自分を認識してくれている時でしか自分自身を認識出来ないからなのかもしれない

だからかもしれないが私は自発的に行動するのが遅くむしろ他人に頼まれた時の方がわりかし早く行動する事が出来る気がする

もちろん自分の意思はあるからやりたい事やりたくない事の取捨選択や優先順位はあるものの基本的には他人ありきなのである


だから 私という存在は自分自身には対した執着や自我などは殆ど無く透けて見える存在なのだが

他人から私という存在を認識してもらって初めて有るのだと解る状態に見えるのではないかと思う。