ども
久々に書き殴っていきます

誤解される事を恐れずに言うなら
私は人間関係をコレクションするコレクターであると思う

人間関係を物と同じ扱いをするなという批判は最もだが
感情が薄い私からしたら似たものなのである

幼なじみ
小学校での出会い
中学の友人
高校の知人
専門の知り合い
職場の同僚

その他数多くの縁で沢山の人達と出会っては別れた気がする
小さな頭では全てを思い出せないが私と関わってくれた感謝すべき人達

しかし私が思い出せる大切な人数は数えられる
なんなら両手ぐらいの人数でしかない

さながら棚の上に飾った小物のようで
その時々の気分や環境で入れ替わっていく棚の上の小物と景色

何かの拍子で落として欠けて勿体ないから飾るのだが
周りから捨てろと言われ惜しみながら棚から消える

新しい小物がその空いた隙間に収まると嬉しくていつの間にか忘れてしまう
大切だったはずの欠けた小物

何かのタイミングで思い出してまた買おうとして
似た何かで埋めてもやっぱり別物

アイドルとか美人・美女を見ていてもそう
テレビで見かけて目を奪われて追いかけて
いつの間にか見なくなってまたテレビが次の子を取り扱う

私としては新しいモノにホコリが付いたり汚れたりソレでもそこに有るモノを成長や時間を眺めていたいのに周りは常に変わっていって私だけが置いてかれて
私の棚の上は常に変わっていく

私の棚の上は私の好みを反映させながら私という人間性を表現し私の歴史を紡いでいる
あの時好きだった少女
あの時読んだ本と出演者
あの時聴いたラジオのMC
それぞれがそれぞれのスタンスで私の人間性を教えてくれる
自身を飾る装飾ではなくて自身の生き方を積み重ね飾ってくれる

たまに忘れたまましまってた小物をふと思い出して声をかけまた飾る
少ないスペースじゃ乗せきれないから片付けては足してまたしまう

そんな関係性を続ける私の人間関係は私という人間にはかけがえのないコレクションで
そんな私も誰かしらのコレクションなんだと思う。
ども

ゴールデンウィークも終わり気温も温かくなっていきもう少ししたら梅雨に入っていくのでしょうね

さて
最近 思うことがあります
恋愛とは自由度の低いモノではないかと

困難があるほど燃え上がる
というのではなく

そもそも他人に好意を持つことにも権利があるように
相手にも拒否する権利がある


好意を持つことは自由だと主張することは出来るけど
しかし 興味ない相手や嫌悪する相手からの好意はむしろ苦痛だという主張も出来る

見知らぬ誰かが自分を想ってくれる

というのは素敵なように思えるが
事実としてソレが必ずしも素敵だという訳ではない


相手が拒否するのであればともすれば刑事問題になる場合もあると思う

結局 好意というモノは受け入れるもしくは受け止める環境があってこそ喜ばれるモノであり

好意を主張しても 相手から好意を求めないというモノでないと
単にワガママになってしまう
ということ

そこが噛み合って初めて恋愛という歯車は回るのでしょう

こう考えるとなかなかに不自由なのかもしれない


いっそ好意を伝え受け止めてもらうだけならアイドルの追っかけしてるぐらいの方が幸せで
ただ あちらからの好意を求めず
拒否されたら潔く引くぐらいの儚さであれは綺麗なモノとして終わるのでしょうね。
ども


コレを見た人で他人に何かを伝える時ってどうしてますか?

誰かに何かを伝える時に歌が上手い人なら歌で
想いを言葉に出来る人なら言葉で
絵が上手い人なら絵で
という具合にその人それぞれの長所を生かした方法があると思います

いくら模倣しても伝わる部分や伝えたいモノが違ってしまう
さながら借り物の言葉に説得力が無いように

技術だけて表現は出来ても思いは伝わらない

逆に思いだけでも伝える技術がなければ受け取り側まで届かない

多方面に発信しても誰かしらに届いて貰えないと独り言と変わらない

でも発信しないと誰にも受信できない

想いは秘めただけでは気付いてもらえない


だからこそ私は私なりの方法で拙いなりの贈り物で伝えたいしたいなと思ったりします。