二目 至誠心釈 20
a 『経』に云わく、「一者至誠(しじょう)心」。「至」は真なり。「誠(じょう)」は実なり。一切衆生の身・口・意業の所修の解行(げぎょう)、必ず真実心の中に作(な)したまえるを須(もち)いることを明かさんと欲(おも)う。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端(ももはし)にして、悪性侵(や)め難し、事、蛇蠍に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心(あんじん)・起行を作(な)すは、たとい身心を苦励して、日夜一二時、急に走(もと)め急に作(な)して頭燃を灸(はら)うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。b この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生(ぐしょう)せんと欲するは、必ずこれ不可なり。何をもってのゆえに、正(まさ)しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作(な)したまいしに由【由の字、以周の反(かえし)、経なり、行なり、従なり、用なり】ってなり、と。おおよそ施したまうところの趣求(しゅぐ)をなす、またみな真実なり。c ①また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。 c ②乃至 d 不善の三業は、必ず真実心の中に捨てたまえるを須(もち)いよ。またもし善の三業を起こさば、必ず真実心の中に作(な)したまいしを須(もち)いて、内外・明闇を簡(えら)ばず、みな真実を須(もち)いるがゆえに、「至誠心」と名づく。
解行 解は智慧、行は修行。証にいたる智慧と修行。
蠍 さそり。毒虫である。
一念 短き時刻。六十刹那、又は九十刹那を一念とすといい、又は一刹那の訳であるという。
一刹那 梵語クシャナ(ksana)、極めて短き時刻、この一刹那の間に百一生滅ありという。 (597p)
(講義:「真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。」までで、分ける。)
(講義:おおよそ~またみな真実なり 一行でわける。 字解なし)
内外明闇 内は出世聖者、外は世間凡夫。明闇は明は出世、闇は世間。又、智慧の明らかなること、智者。闇は智慧なき無明のこと、愚者。 (606p)
☆ 頭注
真実心の中に作(な)したまえる (いし *大系のよみかた) 親鸞特異の読みかた。
賢善精進の相 親鸞特異の読み方、賢前精進の相は賢者や善人らしく励むすがた。
貪瞋… むさぼり、いかり、よこしまの煩悩、およびいつわり、わるだくみ。
蛇蠍 毒蛇・害虫のこと。蛇は毒蛇、蝎はさそり。
頭燃 頭上の火。
施したまうところの趣求(しゅぐ)をなす 親鸞特異の読み方。一般には「施為(利他)・趣求(自利)するところ」と読む。
自利真実 自力の真実のこと。親鸞特異の理解。
利他真実 他力回向の真実。親鸞特異の理解
捨てたまえるを・作したまいしを 親鸞特異の読み方。
内外明闇 聖者と凡夫。智者と愚者の意。 (76p)
三目 深心釈 21 前半
e 「二者深心」。「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、広劫より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。f また決定して深く、「釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証賛して、人をして欣慕(ごんぼ)せしむ」と信ず。g また決定して、「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生まるることを得」と深信するなり。h また深信する者、仰ぎ願わくは、一切行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行に依って、仏の捨てしめたまうをばすなわち捨て、仏の行ぜしめたまうをばすなわち行ず。仏の去(す)てしめたまう処をばすなわち去(す)つ。これを「仏教に随順し、仏意に随順す」と名づく。これを「仏願に随順す」と名づく。これを「真の仏弟子」と名づく。また一切の行者、ただよくこの経に依って行を深信する者は、必ず衆生を誤らざるなり。何をもってのゆえに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆえに、実語なるがゆえに。仏を除きて已還(いげん)は、智行未だ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありて、未だ除からざるに由って、果願未だ円(まどか)ならず。これらの凡聖は、たとい諸仏の教意を測量(しきりょう)すれども、未だよく決了することあたわず。平章(ひょうしょう)ありといえども、かならず須(すべか)らく仏証を請(こ)うて定とすべきなり。もし仏意に称(かな)えば、すなわち印可して「如是如是」と言(のたま)う。もし仏意に可(かな)わざれば、すなわち「汝等が所説この義不如是」と言(のたま)う。印せざるは、すなわち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまうをば、すなわわち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなわちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多・もしは少、すべて菩薩・人・天等を問わず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなわちこれ「了教」なり、菩薩等の説は、ことごとく「不了教」と名づくるなり、しるべしと。このゆえに、今の時、仰ぎて一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし、菩薩等の不相応の教を信用してもって疑碍を為し、或を抱いて自ら迷(まど)いて、往生の大益を廃失すべからざれとなり。 i j k① 乃至
広劫 広は遠の義、遠い昔から重ねた劫。長い長い時間のこと。
出離之縁 生死の世界を離れいずる縁(手がかり) (608p)
(定んで往生を得」と信ず。 まで)
三福 世福(世間の道徳。父母に孝養すること。師長に奉事すること。慈心を以て殺生せざること。十善業を修めること)。戒福(仏の定められたる戒律。仏法僧の三宝に帰依すること。衆戒を守ること。威儀を犯さぬこと)。行福(大乗の教える修行。菩提心を発し、因果の理法を信じ、大乗経典を読み、他の行者に勧めること)。
九品 浄土の散善の機類を、行の勝劣に従って九種に分類せるもの。上に三品、中に三品、下に三品を分つ。之を上の三福に配当すれば
上三品 行福
中 上品 戒福
中品 戒福
下品 世福
下三品 無三福の悪人
定散二善 定善は慮りを息(や)め、心を凝(こ)らして観想すること(観法によりて獲る善)。散善は、悪を廃(や)めて、善を修めること(上の三福を修めること)。
依正二報 依報、正報のこと。依報は、有情の所依となる果報。山河、大地、衣服、飲食等を指す。正報は、依報に対す。正しく自己の業因によりて獲たる正しき果報。有情の肉体精神を指す。
十方 東西南北、四維、上下の十方。
恒沙諸仏 印度の大河恒河の沙の数程多数の仏の意、一切諸仏のこと。 (618p)
(生まるることを得」と深信するなり。 まで)
字解なし
(真の仏弟子と名づく。まで)
学地 因位の修行時代をいう。この間は未だ学ばねばならぬ地位にある故に有学地という。今は略して学地という。之に対して真の証りに至れる位を無学地という。
正習二障 煩悩と、煩悩の習気のこと。正とは正使、煩悩を正使という。凡夫は常に煩悩の爲に使わるるにより煩悩を使という。その正(まさ)しき体たる見或、修或を指して正使というのである。之に対して、其煩悩の気分の残っているのを習気という。
果願 涅槃の果を求むる願のこと。
凡聖 凡夫と聖者。修行の階位中、初住(不退転)以上を聖者、初住以下即ち十信以下を凡夫という。
平章 平は正すこと、章は明らかなること。ものを正し明らかにすること。
無記 善、悪、無記の無記にあらず。記は記別の義であって、意味を分別してこうこうだと決定すること。ここには無意味という程の意。
正教 正しい教。
正義 その教えに含まれたる正しい義理。
正行 正しい仏法の修行。
正解 智慧を以て、正しく教えを了解すること。
正業 業は動作、正しい威儀を具えた立居振舞。
正智 正しい仏法の智慧。 (622p)
☆ 頭注
広劫よりこのかた はかり知れぬ昔から。
出離の縁 迷いの世界を離れ出て救われるてがかり。
三福 (一)世福(世間の道徳)、(二)戒福(小乗の戒律)、(三)行福(大乗の善行)。
九品 浄土に往生を願うものを九品の階級に分ける。即ち上上・上中・上下・中上・中中・中下・下上・下中・下下の九品をいう。 (76p)
定散二善 定善と散善のこと。定善とは雑念をやめて心をこらして行う觀法、散善とは心の乱れたままで悪を廃し善を修する行でこれに世・戒・行の三福がある。
依正二報 依報と正報との二種の果報ということで、浄土の、国土と仏と往生人のことをいう。
真の仏弟子 信心者のこと。
智行 菩提を求むる智慧と修行。
学地 修行中の地位。無学地(証果を得た位)に対する。
正習の二障 煩悩(正使)およびまだ残っている気分(習気即ち余習)の二つのさわり。これは仏道修行の障害となる。
果願 仏果をもとめる願い。
平章 道理を正しく明らかにする。
印可 認容する。
如是如是 そのとおりそのとおり。
無記 意義のないこと。無意味なこと。
正義 ただしい義理。
正解 ただしい解釈。
正業 ただしい身・口・意の三業の動作のこと。
正智 ただしい智慧。
了教 ただしい決了の教え。
不相応の教 仏教にかなわない教え。方便・不了義の教え。 (77p)
三目 深心釈 21 後半
k ② 釈迦、一切の凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命已後定んでかの国に生まるれば、すなわち十方諸仏、ことごとくみな同じく讃(ほ)めおなじく勧め同じく証したまう。何をもってのゆえに、同体の大悲なるがゆえに。一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり、一切仏の化はすなわちこれ一仏の所化なり。k ③ すなわち『弥陀経』の中に説かく、「釈迦、極楽の種種の荘厳を讃嘆したまう。」k ④ また「一切の凡夫を勧めて、一日・七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、定んで往生を得しめたまう」と。次下の文に云わく、「十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく、釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪無信の盛なる時において、弥陀の名号を指讃して、衆生を勧励せしめて、称念すれば必ず往生を得、と賛じたまう」、すなわちその証なり。また十方仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんを恐畏(おそ)れて、すなわち共に同心・同時に、おのおの舌相を出して遍く三千世界に覆いて誠実(じょうじつ)の言を説きたまわく、汝等(なんだち)衆生、みなこの釈迦の所説・所賛・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少・時節の久近を問わず、ただよく上百年を尽くし、下一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、定んで往生を得ること、必ず疑いなきなり。このゆえに、一仏の所説をば、すなわち一切仏同じくその事を証誠(しょうじょう)したまうなり。これを「人に就いて信を立つ」と名づくるなり。 l ① 乃至 l ② またこの正の中について、また二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問わず、念念に捨てざるをば、これを「正定の業」と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。もし礼誦等に依らば、すなわち名づけて「助業」とす。この正助二行を除きて已下の自余のもろもろの善は、ことごとく「雑行」と名づく、と。 l ③ 乃至 l ④ すべて「疎雑(そぞう)の行」と名づくるなり。かるがゆえに「深心」と名づく。
専念 専ら念仏一行を称うること。
専修 五専修(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養)。ここは、専ら修むる意にして、念仏一行を専修すること。専念に同じ。
同体大悲 諸仏の慈悲をいう。三世諸仏の慈悲とは、衆生をして弥陀の浄土へ往生せしむることである。故に諸仏の慈悲は、弥陀と同体の大悲である。 (624p)
(「人に就いて信を立つ」と名づくるなり まで)
正定之業 吾等凡夫を正しく浄土往生の身に定めるはたらき。
雑行 浄土の正行たる五専修(読、観、礼、称、讃)を除いて、余の一切の諸善万行(例せば、四諦、六波羅蜜等の如き)をいう。これらは、阿弥陀仏に対して疎々(うとうと)しい雑りのある行であるから雑行という。 (628p)
☆頭注
同体の大悲 同じさとりから起こる大悲であるから、仏の大悲はいずれの仏も同一であるという意。
悪見 あやまった見解。
久近 時間の長短。
証誠 証明すること。
正の中 五正行の中という意。
行住座臥 歩むも立つも坐るも臥すもの意。仏道修行の形式のこと。
正定の業 まさしく往生が決定する原因の意。他力の称名をいう。
助業 正定業の称名にともなって起こる行の意。また正定業である称名を助ける行の意。五正行のなかの読誦・観察・礼拝・讃嘆供養をいう。 (78p)
四目 回向発願心釈 22 前半
m 「三者回向発願心」。 n 乃至 o また回向発願して生ずる者は、必ず決定して真実信の中に回向したまえる願を須(もち)いて得生の想(おもい)を作(な)せ。この心深信せること、金剛のごとくなるに由りて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために、動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉(と)って正直に進みて、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなわち進退の心ありて、怯弱(こうにゃく)を生じて回顧(えこ)すれば、道に落ちてすなわち往生の大益を失するなり。問いて曰わく、もし解行不同の邪雑の人等ありて、来りて相或乱して、あるいは種種の疑難を説きて「往生を得じ」と道(い)い、あるいは云わん、「汝等(なんだち)衆生、広劫より已来(このかた)、および今生の身・口・意業に、一切凡聖の身の上において、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、いまだ除尽(じょじん)することあたわず。しかるにこれらの罪は、三界悪道に繋属(けぞく)す。いかんぞ一生の修福念仏をして、すなわちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや。」答えて曰わく、諸仏の教行数塵沙(じんじゃ)に越えたり、識(さとり)を稟(う)くる機縁、情に随いて一にあらず。たとえば世間の人、眼に見るべく信ずべきがごときは、明のよく闇を破し、空のよく有を含み、地のよく載養(さいよう)し、水のよく生潤(しょうにん)し、火のよく成壊(じょうえ)するがごとし。これらのごときの事、ことごとく「待対の法」と名づく。すなわち目に見つべし。千差万別なり。いかにいわんや仏法不思議の力、あに種種の益無からんや。随いて一門を出ずるは、すなわち一煩悩の門を出ずるなり。随いて一門に入るは、すなわち一解脱智慧の門に入るなり。これを為(も)って縁に随いて行を起こして、おのおの解脱を求めよ。汝何をもってか、いまし有縁の要行にあらざるをもって、我を障惑(しょうわく)する。しかるに我が所愛は、すなわちこれ我が有縁の行なり、すなわち汝が所求にあらず。汝が所愛は、すなわちこれ汝が有縁の行なり、また我が所求にあらず。このゆえにおのおの所楽(ぎょう)に随いてその行を修するは、必ず疾く解脱を得るなり。行者当に知るべし、もし解を学ばんと欲(おも)わば凡より聖に至るまで、乃至仏果まで、一切碍(さわり)なし、みな学ぶことを得るとなり。もし行を学ばんと欲(おも)わば、必ず有縁の法に籍(よ)れ、少しき功労を用いるに多く益を得ればなりと。
金剛 宝石の名、五四六頁をみよ。
異見異学 浄土の法門と異なっている学問と見解。聖道諸教、外道、及び其他の学派を指す。
別解別行 浄土真実の教と別の教。浄土の要門、真門等の自力念仏の教をいう。
十悪 十種の悪業。殺生、偸盗、邪淫、(身三)妄語、綺語、悪口、両舌、(口四)貪欲、瞋恚、愚痴(意三)。
五逆 五種の逆罪。五無間業とも云う。殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血。
四重 四つの極重の罪。殺生、偸盗、邪淫、妄語は極めて重き罪ゆえに殊に此名の下に重ねあぐ。
闡提 梵語、具にイッチャンカ(icchantika)、一闡提、一闡底柯、一顛迦等とも音訳す。其原語の意味は、「何処までも求めて已まない」、「どこ迄も満足しない」というので、信不具足、又は断善根と訳している。解脱の因絶え果てて、成仏の見込みなき機類をいう。ここでは、慙愧の心のない悪凡夫をさす。
三界悪道 三界は欲界、色界、無色界。悪道は欲界中の地獄、餓鬼、畜生の三悪道のこと。
無漏無生之国 極楽浄土のこと。無漏は煩悩の穢れなきこと。無生は生死の絶え果てたること。極楽国土は是等の徳ある故に名づける。
稟識 有情のこと。一切衆生は皆な識を稟(う)けているから此名あり。
有 質礙(せつげ)の意、物質のこと。 (642p)
☆頭注
回向したまえる願 親鸞特異の読み方。
得生の想 往生することがまちがいないと確信して安堵するおもい。
異見・異学 浄土往生を願う場合と異なった見解や学びをする人。
別解・別行 浄土門の人と違う見解や行いの人。
捉 現行一般の本は「投」に作る。
十悪 十種の悪業。殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・愚痴の十.
五逆 殺夫・殺母・殺阿羅漢・破和合僧・出仏身血。→ 七三頁注
四重 比丘の守るべき最も厳重な四重禁戒を犯すこと。殺生・偸盗・邪淫・妄語の四.
謗法 仏法を謗ること。
闡提 →一〇頁注
破見 仏法の正見を破ること。
三界 欲界・色界・無色界のこと。迷いの世界を三種に分類したもの。
無漏無生 煩悩のけがれがなく、生死のない弥陀の浄土のこと。
塵沙 塵や砂のように非常に数多いこと。
識を稟くる機縁 さとりをさずかる機会・因縁。
待対の法 相対法の意。 (79p)
解脱 涅槃の異名。煩悩の繋縛からはなれて、迷いの苦を脱すること。 (80p)