オキシドールで消毒。

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傷口を消毒する時に使用する約3パーセントの過酸化水素を含む水溶液で、しゅわしゅわっと発泡するアレです。

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 【世界でもっとも物悲しい仕事として海外で報じられている「日本の孤独死現場清掃処理業者」(閲覧注意)】
 http://karapaia.livedoor.biz/archives/52188907.html







 私の祖母は87歳で死んだ。
 
 直腸癌だった。

 だから最後は病院のベッドの上だった。

 この記事で取り上げられてる孤独死した85歳の老人と比べたら幸せな最期だとの印象が他人には残ると思う。

 この世を去るまでの数ヶ月はみるみる衰えて、週に一度、洗濯物を取り換えるためだけに訪れる私を見ても何の反応も示さず、「早く帰れし」とだけ。

 当たり前だ。可愛がった覚えの無い孫だけしか定期的に見舞いに来ない。

 県外に嫁いだ実の娘が頻繁に来られるワケがない。




 
 私は子供の頃から祖母が嫌いだった。

 母と仲が悪くて、母をイジメているように思えたからだ。

 そして見栄っ張りだった。

 近所の人にまで呆れられるくらい見栄っ張りだった。

 そういう祖母を好きになれない私の言動は祖母に対してはどんどんキツくなるばかりで、結果的に祖母も私の事が嫌いになっていった。





 週に一回、衰えてゆく祖母を見ながら「哀れなヒト」と思った。

 でも、ボケてるなら、自分の哀れさも分からないだろうと思っていた。

 嫌いな祖母を見ても、思うことはそれだけだった。

 しばらくして祖母はこの世を去った。

 葬式の時に知ったが、実の娘に言わせると祖母はボケていなかったらしい。

 そして「もう、頑張れない」と弱気なことまで言っていたとも。

 「頑張れない」と諦めるまで、祖母は頑張っていたという事になる。

 ・・・何のために?

 祖母のような90歳近い老人の病が快復するなど誰も思わない。

 いつ頃、死んでしまうんだろう、と誰もが思っていたと思う。

 「もう、頑張れない」とクチにしてから、この世を去るまでの間、祖母は何を考えながら生きていたんだろう?

 体力もなく、自分で命を絶つことも出来ない。

 目覚めて見えるのは病院の天井だけ。

 目覚めて病院の天井を見る。意思表示も出来ず寝る。その繰り返しが終わるまで生かされていただけのように思えて、ぞっとした。





 最初に貼った記事の中で孤独死した85歳の老人よりも祖母の最後は幸せだろうか?

 幸せではないにしても「マシ」だと思う人は多いだろう。

 でも、何がマシなんだろう?

 病院の天井を見ながら祖母が何を想っていたのか知ることは出来ない。

 ただ、家族にしてみると、病院で死んでもらえると葬式までの事務手続きがスムーズだ。

 兄が若くして突然、死んでしまった時と比べても数倍スムーズだったし、葬式も冷静に終えることができた。

 当たり前の死だから。

  


 

 
 

 













 スーパーでサエちゃんを見かけた。

 たぶん、サエちゃんだと思う。

 中学生くらいの子供と一緒だったサエちゃんは、心なしか疲れているように見えた。

 見かけただけで、声はかけてないから、本当はサエちゃんじゃないのかもしれない。

 どーしてもサエちゃんだと思ってしまったので、あの女性はサエちゃんだったということで、想い出を書く。




 サエちゃんとは中学まで一緒だった。

 “サエちゃん”なんて書いておいてなんだけど、別の友達グループだったから、それほど仲良しというワケではなかった。

 先日、麻生太郎が“学校で一番いじめられてるやつはといえば、けんかは弱い、勉強できない、しかも貧しい。 3つそろったら丸腰。”と言って物議を醸したけど、あながち間違いとは言えないどころか、内心、認めたくはないが、その通りだと感じた人は多いと思う。

 サエちゃんは・勉強できない・貧しい、の二つが揃った娘だった。でもイジメられてたワケじゃなかった。学校内のカーストで言えば最下層のグループに属してるという認識だけ。

 あの頃、学年で誰かを孤立させるというイジメが起きた記憶は無い。

 ナゼだか、グループに分かり易く亀裂が入るのは一番上の華やかなグループばかりで、そこから弾かれた子は、最下層のグループに堕ちる。

 最下層のグループの子達は、堕ちて来た子を嫌がることもぜず、それなりに受け入れていた。

 サエちゃんのいたグループがセーフティーマットの役割を果たしていたため、誰かが孤立するような事態は起きなかった。

 しかし、堕ちてしまった子が、この最下層のグループから、いつかは抜け出さなくちゃ、と思ってるのは遠巻きに見てると分かる。

 友達同士の亀裂は防ぎようがないが、孤立者を出さないシステムみたいなものが自然発生的であった点は、社会保障制度が必要としてる弱者に行き届いてない今の日本よりも、まともな空気や人の質みたいなものがあったように錯覚してしまいそうだけど、それは、大人になった今、サエちゃんのことを思い出そうとして、一時的に、あの頃を俯瞰してるからってだけで、昔は良かったなんて、懐かしがる気はさらさら無い。

 時がバブル前夜くらいだったから、時代の余裕が子供だった私たちにもキモチの余裕を与えていたのかも、などと分析する他人はいるだろうが、あの頃がバブル前夜だったなんて、不況の今だから、そう思えるだけのことだから。

 こう書いてみて、冷静に振り返ると、私だってサエちゃんと同じく・勉強できない・貧しい、の二つが揃った子供だった。

 母子家庭の貧しさは、あの頃の私にはどうにもできない。いい大人になった今でも、どうにもできないのだから。

 それでも、勉強なら少しは結果が出せる気がした。

 神童と呼ばれる同級生は既に居たから、そんな天才を目指す必要はなかった。とにかく、バカにされるほどのバカになってしまっては、学校では生きてゆけない恐怖感があった。片親というハンデを持ってしまっている以上。

 私から見たら、サエちゃんは麻生太郎が言った“丸腰”そのものだった。

 勉強が出来ないことに落ち込む様子もなく、母親は二人目で、家が貧乏だと皆が知ってたのに、ウチにはグランドピアノがあるの、と、すぐバレる嘘をついて、バカにされたりもしてたけど、そんなサエちゃんを庇う友達もいて、私が抱え込んだ恐怖と同じものをサエちゃんから感じ取れることはなかった。

 サエちゃんですら庇ってもれるのなら、私も無理せず丸腰のまま生きてゆこう、だなんて、あの頃、どーしても思えなかった。

 サエちゃんと私は別だと言い聞かせてたんだと思う。無意識に。

 そしてサエちゃんは庇ってもらえても、私が庇ってもらえる自信がなかった。

 庇ってくれるような友達がいるサエちゃんが羨ましくて、軽蔑するしかなかった気がする。

 私が属したグループは、それなりだった。カーストでいったら中間くらい。

 母子家庭で貧乏な私が、そのグループにいることに違和感を覚えてる子がいるのには気づかない振りをするしかなかった。
 
 他愛も無い話をしていても、あからさまに背を向ける子がいたり、言葉にはしないものの、軽蔑してる視線で私を見てくる子もいた。

 今なら、あの頃の自分を、同じグループの友達から背を向けられた私、軽蔑された私、と言葉にできる。きっとそれは、あの頃の自分は、今、こうやってブログを書いてる自分とは違うと勘違いしてるからだと思う。

 誰かから背を向けられたり、軽蔑されたり、実は、今でも自分に起こってる現実なのだけど、“あの頃”を言葉にすると、少しだけ今とは別ものになる。

 私が抱え込んだ、母子家庭を軽蔑されることへの羞恥心とか、両親が揃ってるだけで健全だと判断される他の子に対する嫉妬とか、そういうドロドロした感情がサエちゃんからは感じ取れなかった。

 だからサエちゃんが能天気に見えた。サエちゃんはバカだから、ということで納得しようとした。

 サエちゃんがイジメられなかった理由は、そもそも敵とみなされてなかったからな気がする。私みたいに歪んだ上昇志向が皆無だと皆に判断されたからな気がする。

 それでも、サエちゃんが学校で泣いたのを一度だけ見たことがある。

 小学校だった。

 学年の終わりに、一年間世話になった教室を、いつもよりも念入りに掃除をしてた時のこと。

 クラスメイトの一人が、埃だらけでシワくちゃの答案用紙を見つけた。
 
 名前を見ると、クラスメイトのものではなく、何年か前の答案用紙らしかった。

 しかも、おどろくほど点数が低く、呆れて馬鹿にしながら皆が笑っていた時、先生だったか、クラスメイトだったかが、その答案用紙の名前がサエちゃんの兄の名前だと気づいた者がいて、サエちゃんに答案用紙を渡すと、受け取ったサエちゃんがたちまち泣き出した。

 いつもは能天気なサエちゃんが泣き出したことに皆が戸惑ってしまった。

 今でも覚えてるけど、その場に男性の担任がいたのに、何も言わなかった。

 サエちゃんが泣いていて、皆が戸惑って、先生も何も言わず、この日がどんなにふうに終わっていったのか覚えていないけど、なぜ先生は何も言わないんだろう?と、腹立たしかったのを覚えている。

 私にもサエちゃんの兄と同じくらいの兄がいて、他人事とは思えず、サエちゃんが泣くしかない理由は痛いほど分かった。 

 


 それから十数年がたって、車で信号待ちをしている時、横切ってきた車をサエちゃんらしき人が楽しそうな横顔で運転しているのを見て、羨ましかったのを覚えてる。 

 それからまた十数年がたって、近所のスーパーでサエちゃんを見かけた。

 冒頭で書いたように、本当はサエちゃんじゃないのかもしれない。楽しそうに車を運転してた人だって、違う人かもしれない。

 スーパーで見かけた、地味なTシャツに地味なズボンで、明らかに貧相な身なりの、その女性が疲れたような表情をしていたことで、子供の頃にサエちゃんに抱いた、“能天気だけど哀れな子”のイメージの“哀れ”というイメージの方だけが合致して、私が勝手にサエちゃんだと思い込んでるのかもしれない。

 順風満帆な人生を歩んでるとは冗談でも言えない私もTシャツにジーンズ姿で、サエちゃんと思われたその女性と大差ない格好をしていた。

 私がその女性を見てサエちゃんを思い出している時、貧相な格好の私を見て、貧乏で馬鹿なくせに無理をしてた可哀想な子供の頃の私を思い出してる誰かが、あのスーパーにいたのかもしれない。

 

 











 祖母の話をする。

 祖母の話といっても、死に際の話になるけど。

 直腸癌を患った祖母は87歳で死んだ。

 私は母も嫌いだけど、同じくらい祖母も嫌いだった。

 それなのに職場が近いという理由で、週に一回の見舞いを母から強制させられた。

 県外に嫁いだ一人しかいない実の娘が、どのくらいの頻度で見舞いに来てたのかは知らない。 

 ただ、見舞いと言っても、病院で取り替えてくれた使用済み下着を持ち帰り、替わりに新しい下着を置いて、後は会計を済ませて帰るだけ。

 ただ、それだけ。

 嫌いな祖母だったけど、病室に入ると、それだけで帰るのには気が引けた。 

 最後の病院に転院した頃は、まだ元気で、たいして可愛がった覚えの無い孫の私ばかりが見舞いに来るのが嫌だったようで、母に来るようにと我がまままで言い出した。

 そんな祖母の見舞いなど面倒臭かったし嫌だったけど、もう回復する見込みのない祖母が哀れに思えてしまったのと、薄情な孫だと病院の人から思われたくなった両方のキモチで、なかなかすぐに帰ることが出来なかった。

 そんな祖母が衰え始めるには時間はかからなかった。

 自力で起き上ることも出来なくなり、仕舞には私を見ても何もしゃべらなくなった。

 それでも、何か言うまで傍らで座っていると、「もう、帰れし」と小さな声で。

 不思議だけど、そんな状態の祖母を見ていても、死ぬイメージはわかなかった。ただ、身体の衰えに加えて人格が変わったような気がした。

 その頃だと思う、母が気まぐれに祖母の様子を訊いてきた時、私は「ボケてきみたみたい」とだけ言うと、母は「そう」とだけ答えて、それきりだった。

 祖母と母の折り合いが悪いのは子供の頃から見てきた。

 大人になった今では、嫁と姑のそんなことは、どこの家庭でも、よくある話だと思えるが、子供の頃の私には、眠りにつくまでの間に、時折、聞こえてきた母と祖母の喧嘩をする声が恐ろしかった。父が死んで、残された大人が仲が悪いのでは、この家は壊れるかもしれないと思うと眠れなかった。 

 しばらくして祖母は死んだ。

 職場に向う途中に連絡があり、その足で病院に向い、私が着いた時には、まだ祖母は生きていたが、意識はもう無く、母と弟が到着し、少しすると亡くなった。

 これを死に目に会えたというのだろうか。

 一般的には言うらしいが、私にはいまだにピンとこない。

 子供の頃は、祖母という生き物は、若い頃など存在しない生き物だと思っていた。

 祖母の容姿は、まんが日本むかし話に登場する、ふくよかな老婆そのものだった。

 肩にドっこいしょと乗せられるほど大きかった胸は、亡くなる頃には面影もなかった。

 少しだけ涙が出た気がする。

 しかし、こういう時に限って身内は感傷に浸ってられないのだと、兄の葬儀で学んだ。

 祖母の亡骸を迎え入れられるよう、適当でも家の中の掃除をするために、私だけ一足先に家に帰った。

 老人の葬儀は、呆気ないくらいスムーズだ。

 兄の時とは違い、気が動転して、葬式のための重要な何かを忘れるなんてことも起きなかった。

 病院のベッドで死ぬにしても、それが老人だと、死に憚りがない。

 憚りが無いというのは、残された家族にとって、事務手続きがスムーズということ。

 亡くなった本人にとって、死がどういうものだったのかを残された家族が考えなくても世間は責めないという空気みたいなもの。

 ほとんどの人が理想とする死が、この憚りの無い死だと思う。

 果たして、理想だろうか。

 ここ最近、そんなことばかりを考える。

 祖母の葬儀が済んで、一段落ついた時、母が思い出したように、祖母の実の娘が言ったことを話し始めた。
 
 祖母はボケていなかったと言っていたと。

 そして、もう頑張れないと弱音を吐いたと。

 それを聞いた私は「ふぅ~ん」とだけ返事をした。

 私が祖母のことをボケていると言ったことが軽はずみだったとしても、今さら、それを知ったとして、どうだと言うのだろうと思ったから。

 当時は、祖母を見舞うたび、実の娘はろくに見舞いにも来ず、週に一回、見舞いに来るのは出来が悪くて、可愛くもない孫だけ。後は衰えてくだけの祖母のことを初めて哀れに思えて、こんな哀れな老婆よりも、若くして突然死んだ兄の方が哀れに語られるなんて、納得がいかなかった。だから祖母がボケていたか、どうかなど、どうでもよかった。

 最近になって、ようやく、祖母が病院のベッドで死ぬまでの間、どんなことを考えながら毎日を過ごしていたのかを考えるようになった。

 病院のベッドで寝てることしかできなくなったのにも関わらず、ボケていなかったとしたら、、、

 ・・・そう考えると怖くなる。

 年齢を考えれば、もう回復しないのは、本人でも想像できるだろう。

 目覚めるたびに、死ななかったことにホっとするのだろうか?しかし明日は分からない。

 そんな不安を誰が受け止めるのだろうか。

 ベッドから自力で起き上ることも出来なくなって、コミュニケーションをとれなくなった老人の不安など、誰が気づくだろう。

 それならば、いっそ、本当にボケてしまえばよかったのにと思った。

 憚られることのない、理想とする死に向かうまでの間にも、恐ろしいほどの不安があるなんて、当時は考えもしなかった。

 祖母が癌を患う前、当然、私も若くて、祖母のような死は、事件に巻き込まれた死や、自死、事故死、兄のような若者の死とは、遠く対極にあると思っていた。

 祖母が地域の老人クラブに入ろうとしなかった理由は、“老人”クラブという、自分の老いを認めざるを得ない、そのクラブ名が気に入らなかったと、随分、前に聞いたことがある。

 それを知った時は、誰が見ても老人なのに相変わらず捻くれてるなぁと呆れただけだったが、そんな人が、自分はもう回復しないと自覚した時、毎日、病院の天井を見つめるだけの
日々に何を想っただろうと考えると、怖くなる。

 しかし、相変わらず、祖母のような死を、それなりにベストだとする人は多いだろう。