古荘其之日庵のsonohi

古荘其之日庵のsonohi

出来れば、なるべく更新できたらいいな其之日庵のブログ

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ものの名前というものは、それがふさわしい名前であるなら、よし聞かずとも、ひとりでに判って来るものだ。私は、私の皮膚から聞いた。ぼんやり物象を見つめていると、その物象の言葉が私の肌をくすぐる。たとえば、キリスト。わるい名前は、なんの反応もない。いくど聞いても、どうしても呑みこめなかった名前もある。たとえば、ヒト
私は生れてはじめて地べたに立ったときのことを思い出す。雨あがりの青空。雨あがりの黒土。梅の花。あれは、きっと裏庭である。女のやわらかい両手が私のからだをそこまで運びだし、そうして、そっと私を地べたに立たせた。私は全く平気で、二歩、か三歩、あるいた。だしぬけに私の視覚が地べたの無限の前方へのひろがりを感じ捕り、私の両足の裏の触覚が地べたの無限の深さを感じ捕り、さっと全身が凍りついて、尻餅ついた。私は火がついたように泣き喚いた。我慢できぬ空腹感。 これらはすべて嘘である。私はただ、雨後の青空にかかっていたひとすじのほのかな虹を覚えているだけである。


少年の日 古荘其之日庵

1972年 日曜の朝9時がその時の少年にとって何より幸福な時間はなかった。朝の太陽を浴びた庭の芝生。新しい1日が始まる。テレビから聞こえる「オフェリア」を聞きながら、姉と決まった時間に教会に行く事が何よりも幸福であった。姉は少年より三つ上のキリスト教系の小学校に一昨年より通っており、初めは姉の付き添いで行き初めた日曜学校の教会。
教会に着いたら、いち早く朝の光を浴びた窓際の席に座りる事だけで、後は、牧師の話や一節づつ読む聖書の言葉も少年には何も理解出来ないものであったが、「天にまします我らの父よ願わくは…父と子と精霊のみなにおいてアーメン」と十字に指で切る行為が、何か大きな力が自分を守ってくれる事を約束してくれるような気がした。