第60回 レオナルド第二フィレンツェ時代 | レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋~最後の晩餐にご招待

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レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画の謎解き・解釈ブログです。
2021年5月末から再度見直して連載更新中です。

 

  1499年フランス軍によるミラノ侵攻

 

 

東方三博士の礼拝(マギの礼拝)を未完成のまま、レオナルドはルドヴィーコ・スフォルツァに召喚され、1482年にフィレンツェを離れミラノに移転しました。

 

ミラノでは、「岩窟の聖母」「最後の晩餐」の他、大騎馬像の製作にも携わりますが、1499年7月にルイ12世率いるフランス軍がミラノ公国に侵攻。

 

 

レオナルドをミラノに召喚したルドヴィーコ・スフォルツァは、フランス軍に捕まり失脚。

フランス軍は町を占領し、レオナルドが製作中であった大騎馬像の模型も、フランス兵の試し打ちの標的にされ破壊されたそうです。

レオナルドは新しい君主となったルイ12世から、絵の注文を受けることができたようですが、1499年末~1500年初め、弟子らとミラノを離れ、マントヴァ、ヴェネツィアなどに数ヶ月滞在後、ボッティチェリのいる、故郷のフィレンツェに戻ります。

 

下の地図は、現代のイタリア半島です。

1500年当時は、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ公国、教皇領、マントヴァ公国、ナポリ王国の他、いくつかの小さい国に分かれています。それらの国境線がうまく引けなかったので、レオナルドに関連する地の位置を示しただけです。おおざっぱな位置関係のみの地図で申し訳けありません。(元の白地図は、旅行のともZenTech様より拝借しました)

 

 

 

ボッティチェリが「神秘の降誕」に銘記した、『1500年の末、イタリアの混乱の時代』とは、フランス軍による侵攻をさしていたのでしょう。

 

 

  マントヴァ公国でイザベラ・デステの素描

レオナルドは、ミラノ公国を出てマントヴァ公国に滞在中、マントヴァ侯妃イザベラ・デステの肖像の素描を描いています。

 

レオナルドはマントヴァでの滞在期間は短かったようで、ヴェネツィアに移動します。

イザベラは何度かレオナルドに、肖像画の製作を催促したそうですが、レオナルドが彼女の肖像画を仕上げることはなかったそうです。

 

「モナ・リザ」のモデルは、このイザベラ・デステではないか?と考察される方もいます。

 

 

 

  ボッティチェリのいるフィレンツェへ

1500年4月にフィレンツェ内で金貨を引き出している形跡があることから、レオナルドは4月にはフィレンツェに戻っていたとされています。

レオナルドが1508年頃、再びミラノに出るまでのこの期間を第二フィレンツェ時代と言われています。

 

この第二フィレンツェ時に、ヴェロッキオ工房での兄弟子であったペルジーノを介して、ペルジーノの弟子ラファエロ・サンティがレオナルドに出会い、影響を受けていきます。

 

 

 

 

 

 

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