1480-82年、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画制作者に、ヴェロッキオ工房の仲間であったギルランダイオ、ペルジーノとボッティチェリは選ばれ、レオナルドは選ばれませんでした。
ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂
システィーナ礼拝堂にボッティチェリらが依頼された壁画は、聖人の異時同図法による作品でした。
選ばれなかったレオナルドが、この時期(1481-82)に請け負った作品は「マギの礼拝」。
レオナルドは、通常の異時同図法ではなく、異時同図に見えない異時同図のものを描こうしたとみえますが、その下絵のアイデアは、フィリッポ・リッピとボッティチェリの影響が強いものでした。彼らの模倣に近いと気づいたからか、また経済的な問題も生じ、制作途中で放棄してフィレンツェを発ちミラノに移転しました。
ミラノにきて早々に絵の依頼が入り、彼は今度こそ、自分独自の異時同図となる作品を描こうとしたのでしょう。
表向きは、「キリストを礼拝する洗礼者ヨハネ」で、
裏の意図は、レオナルド独自の異時同図法による「洗礼者ヨハネの生涯」。
洗礼者ヨハネの体の一部分を移動させることによって、「洗礼者ヨハネの最期」がみえるという、異時同図には見えない異時同図を仕掛けました。
この仕掛けに誰かが気づくか、気づかないか?
レオナルド独自の「異時同図には見えない異時同図」は、依頼主に気づかれないにしても、なにか不自然なもののように見られていたのでしょう。
ルーブル版の「岩窟の聖母」は、依頼主から受け取りを拒否され、長い年月の裁判の末、新たに描き直しをすることになりました。
異時同図に気づくか、気づかれないか
「気づくか、気づかれないか」は、独自の異時同図法という観点で、彼ら(フィリッポ・リッピ・ボッティチェリ)を超える作品が出来たかどうかの判断基準だったと思います。
レオナルドは気づかれた場合の言い訳も用意していますが、何も知らない者達に意図を読み取られるようなら、当然に「異時同図には見えない異時同図」としては駄作となります。
逆に、「異時同図には見えない異時同図」を知っている者が見ても、意図を読み取られなければ、傑作と自賛できたのでしょう。
かつてヴェロッキオ工房で「キリストの洗礼」を共同で描く際に、「異時同時には見えない異時同図」を仕掛けた兄弟子、サンドロ・ボッティチェリ。
レオナルドが「最後の晩餐」のヨハネに、マグダラのマリヤを兼任させるための仕掛けとして利用したのが、ボッティチェリの作品「聖三位一体」です。
まず、この「最後の晩餐」の一作品を見ているだけでは、解くことができないように、
「最後の晩餐」と、他の作品(「聖三位一体」)とを合わせて見ることによって、マグダラのマリヤの兼任が判るようにしました。
そして、人物の平行移動によって別の意味を含ませ、
何重にも意味が通じるように、それぞれの人物のポーズ、手の形、視線、魚料理、窓の光などを構成したのです。
最後の晩餐
↓
我にふれるな(マグダラの前に顕現するイエス)
↓
トマスの不信
↓
エマオの晩餐
↓
朝食に弟子らと魚を食べる
タイトルによる既成概念をすてよう
この一作品の描かれている構成をみれば、これは「最後の晩餐」の一場面であると見るのが大多数でしょう。タイトルも「最後の晩餐」と名付けられていますから、誰もがみな「最後の晩餐」としてみるものです。
しかし、レオナルドに影響を与えたであろう、フィリッポ・リッピやヴェロッキオ工房の兄弟子や、ボッティチェリ、そしてレオナルド自身のこれまでの作品の流れをみていくと、普通の「異時同図法」だったものが、「普通の異時同図法に見えない異時同図」へと、どんどん変化しているのだと、やはり自分は結論づけます。
はじめにマザッチョの異時同図があって、
その弟子のフィリッポ・リッピがその異時同図を進化させ、
その弟子のボッティチェリが応用を加え、
終にはレオナルド・ダ・ヴィンチが究極の異時同図を描きあげたのだと。
後世に名付けられたタイトルの枠に収まらない、
レオナルド渾身の異時同図法なのだと。
第43回に続く。
「最後の晩餐」はもう少し続きます。