「あなたがたのうちのひとりがわたしを裏切ろうとしている」
新約聖書のヨハネ福音書13章21節~の、イエスの発した言葉に、弟子たちが驚きとまどう臨場感あふれる最後の晩餐の場面。
※以下画像内の文字は聖書の記述を抜粋・一部要約しています。文字が小さくてすみません。中央のクリーム色はイエスの言葉です。
ただ、レオナルドが描いたのは、普通の「最後の晩餐」ではありませんでした。
トマスとヨハネに兼任する、洗礼者ヨハネとマグダラ
イエスと12弟子の中で、トマスだけが、体が隠れ顔と手首だけになっているのは、
トマスが洗礼者ヨハネを兼任しているからです。
レオナルドが晩年に描いた最後の作品「洗礼者ヨハネ」の人差し指は、「最後の晩餐」のトマスと、
「洗礼者ヨハネ」との関連を持たせるためのヒントになっていたのです。
では何故、最後の晩餐のトマスに、洗礼者ヨハネを兼任させたのか?
それは、ヨハネにマグダラのマリヤが兼任されていることを証明させるためでした。
ヨハネを、単に女性的に描くだけでは、マグダラのマリヤとは証明できません。
というのは、最後の晩餐のヨハネは従来、若く、髭もなく、弱々しく描かれているからです。
そこでヨハネをマグダラのマリヤだと証明するのに、レオナルドはボッティチェリの描いた「聖三位一体」でのマグダラのマリヤとイエスと洗礼者ヨハネの位置関係と関連づけたのです。
3つの四角い窓
ヨハネ(兼マグダラ)・イエス・トマス(兼洗礼者ヨハネ)の3人の背後に四角い窓で光りを与えたのは、彼ら3人は特別な存在であることを示すとともに、ボッティチェリと関連づけるためです。
当時、人物の背後に四角い窓をいれる特徴があったのが、ボッティチェリの師匠のフィリッポ・リッピ、その息子のフィリッピーノ・リッピ、そしてボッティチェリでした。
3人の背後の四角い窓で「ボッティチェリ」と、トマスの顔と手首で「洗礼者ヨハネ」と関連づけることによって、女性的なヨハネにはマグダラのマリヤを兼任させていると証明させようとしたのです。
ヨハネ兼マグダラの平行移動
もし、マグダラのマリヤを描くことだけが裏の目的であれば、
三つの四角い窓、トマスの顔と手首、三人の並び順で仕掛けは完了しているので、他の画家が描く「最後の晩餐」のように、ヨハネをイエスに寄りかからせるポーズでも構わないはずです。
レオナルドは何故、二人の間に空間を空けたのか?
それは、他の多重の仕掛けのために、離れて描く必要があったからです。
「岩窟の聖母」において、洗礼者ヨハネの首を移動させることによって見える、異時同時には見えない異時同図を考案していたレオナルドでしたので、その応用で「最後の晩餐」では人物そのものを横に移動させることによって見える意味を付加させたのです。
通常の最後の晩餐では、ヨハネはイエスに寄りかかるポーズでしたから、
もしレオナルドの「最後の晩餐」のヨハネを、イエスに寄りかからせるポーズに変化させるとしたら?と想像する者が出てくることを信じたのでしょう。
その場合、ヨハネをその場で反転させるか、横にスライドさせるかの二択になります。
映画ダヴィンチコードでは、画像のように、ヨハネを横にスライドさせていました。
大ヤコブの視線もあるので、横にスライド(平行移動)させてみる方がレオナルドの意図を感じます。
では、何故このような平行移動の仕掛けをつくったのか?
よりヨハネにマグダラのマリヤが兼任させていることを証明させるためとも言えるかもしれませんが、もう一つ、本命の平行移動の仕掛けを気づかせるためであったのではないか?
それは、ユダとペテロの二人を平行移動させるのが、本命の仕掛けではないかと。
教会には絶対に気づかれてはならない仕掛けです。
ユダとペテロの平行移動からみえる意味
レオナルド当時の他の画家が描く「最後の晩餐」では、裏切り者のユダはテーブルの反対側に一人で座らせているのですが、レオナルドのユダは、皆と同じ側にいます。
またペテロが右手に持つナイフですが、ねじれたポーズですので、このナイフを持つ手はペテロの手ではなく別の誰かの手で、ペテロはその「ナイフを持つ誰かの手首」を握っているという解釈もあるようですが、このナイフを持つ手はペテロ自身の手だと思います。
ただし、ペテロの背中に伸びる手首は違います。
もちろん普通にみれば、小ヤコブの手首ですが、
ペテロの背後に伸びる小ヤコブの手首は、蛇が兼任していると思います。
裏切り者のユダの背後にいるペテロ。
ペテロの背後のヘビ。
ユダとペテロとヘビを平行移動させると、ペテロの左手はイエスの首にあたり、右手のナイフはマグダラの腹にあたります。イエスとマグダラを脅かすような立ち位置に変化します。
裏切り者はユダだけではない。
サタン(ヘビ)が先に誘惑したのはペテロの方だとレオナルドは考え、その自身の考えを表現するために、しかし決して簡単には解けないように、いろんな見方ができ、教会に対して言い訳もできるようにと、「最後の晩餐」の構想は練り上げられていったのでしょう。
レオナルドの「最後の晩餐」は、これまでの彼自身の作品の積み重ねと、フィリッポ・リッピやボッティチェリらの作品があってのものですが、それに加えブランカッチ礼拝堂の壁画からも影響あったのだと思います。
ここまでが、第30~37回のまとめになります。
途中3ヵ月ほど休んでしまい間延びしてしまったので、今回は圧縮してまとめただけです。
第39回は、「最後の晩餐」の異時同図に関して。
それではまた!