第26回「岩窟の聖母」に描いた洗礼者ヨハネの生涯 | レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋~最後の晩餐にご招待

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2021年5月末から再度見直して連載更新中です。

 

フィリッポ・リッピがフィレンツェのプラート大聖堂に描いた「洗礼者ヨハネの生涯」がレオナルドの心に強く残っていたのでしょう。

 

 

 

 

依頼主への表向きのテーマは、イエスが洗礼者ヨハネを祝福する「キリストを礼拝する洗礼者ヨハネ」でしたが、

レオナルドの裏のテーマは「洗礼者ヨハネの生涯」であり、異時同図には見えない異時同図ものだったのです。

 

レオナルドの裏のテーマにおいては、天使の人差し指は正しく、むかって左側の子がイエスだったのです。

表と裏の両面のテーマを成立させるため、イエス×洗礼者ヨハネはどちらにも見えるように、約半年違いという年齢差も感じないように似せ、人物が誰かを固定させるアトリビュートは持たせなかったのです。

 

 

マタイによる福音書 3章1~17節 

 

そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、 「悔い改めよ、天国は近づいた」。 預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。 

 

このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。 すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、 自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。

 

 ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。 

 

斧がすでに木の根もとに置かれている。 だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。 わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。 しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。 このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。

 

  そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。 ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、 

「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。 

しかし、イエスは答えて言われた、

「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。

そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。 すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

 

ヴェロッキオとの共同作品であった「キリストの洗礼」は、上記マタイ福音書の場面を描いたものです。

 

「岩窟の聖母」のイエスと洗礼者ヨハネのポーズは、この「キリストの洗礼」を表現したものです。

 

 

 

 

 

そして、異時同図には見えない異時同図となる、

もう一つの場面が「洗礼者ヨハネの最期」

 

 

 

上差しこちらはフィリッポ・リッピの洗礼者ヨハネの最期の場面です。

左壁で洗礼者ヨハネの首を切断し終えた衛兵が、その首をつかみ、右壁の広間の女性の持つ盆にのせようとしています。

衛兵の首を持つ手を、壁の角度も考慮しながら「処刑の場」と「広間」との異なる空間・時間にまたがって描いています。

 

首を切断して上に持ち上げた衛兵のごとく、「岩窟の聖母」の洗礼者ヨハネの首を切って上にもっていけば、「聖母マリアの手かざし」は「首をつかむ手」となり、天使の「イエスを指すひとさし指」は「手刀または首を受けるもの」となるのです。

 

 

「岩窟の聖母」と名付けられているこの作品は、

 

①キリストの洗礼の場面

②洗礼者ヨハネの最期の場面

 

①と②による、洗礼者ヨハネの生涯であり、

絵の中の人物の一部分を移動させることによって見える、異時同図には見えない異時同図であるということです。
 

 

「マギの礼拝」でボッティチェリが絵を見る者に視線を向けて自画像を描いていましたが、

「岩窟の聖母」の天使の視線も意味ありげです。

 

「 この指の意図が判るか? 」

 

この絵を見る者らに対してか、フィレンツェのサンドロ・ボッティチェリに対してなのか?

レオナルドの問いかけのようにも見えます。

 

 

 

これは彼らの方法とは違う、これこそ自分独自の異時同図だ!

自分の描いた裏の意図(洗礼者ヨハネの異時同図)には誰一人として気づきはしない、

・・・サンドロが見たら気づくだろうか?

 

 

レオナルドは今度こそ彼らを超える異時同図の仕掛けが出来たと自負していました。

完成後には教会を訪れる多くの人々がこの絵を見上げるはずでした。

そして彼らの反応を眺めながら、一人ほくそ笑むその日を思い描いていたのに・・・。

 

 

依頼主はレオナルドに要求します。

 

 

 

「天使の指は不要なので消してください。」

 

 

 

第27回へ続きます。