今日は逆エンパスについて話してみようと思ったのですが、その前に大事な話をさせてください。
それで、この話が長くなったので逆エンパスの話は次の記事にしますね。
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逆エンパスの説明の前に前提として、理解していただきたいことがあります。
人の内面の性質を仕分け分類して名前を付ける行為についてです。
さまざまな発達障害から始まり、エンパス、HSP、前者後者、内向型外向型…今では内面についての説明はいろいろあります。
なぜ人の内面の性質に名前をつけて自分はどのカテゴリーに入るのかと仕分け、分類する必要があるのかというと、それは生きづらさの軽減・しっかりと自分の内面を分解して見て、はっきりと明らかにし対応の方法を発見するという目的があるのです。
逆を言えば、今の自分の生きる姿勢や人生に何も問題なく生きづらさや疑問を感じていないのなら、自分の性質にわざわざ名前を付けたり分類する必要はいっさいないのです。たとえ、それが精神障害の域に達していたとしても、周りの人間のサポート、自分の心の充実・幸せ等がしっかりとあるなら変に診断し名称・病名をつけてもらうことなどをする必要性がないのですね。
(発達障害のお子様がいたとして、学校・家庭・地域でまったく不自由や不便がないのなら診断してもらう必要はないと思います。けれど、大人になっても100%で周りの環境からのサポートがあるのかどうかは、わからないので、生活や就職の面での正当な免罪符?盾?守るためのもの、として障がい者の枠にいれておくということも考えてもいいしね。※"免罪符"っていうのはドンピシャな表現がなかったのでこの言葉を使いました。障害は生きるのに確かに障害になりますが、それがダメとか罪とは私は思っていないんですけれど。)
人の外面は目で見てはっきりととらえられます。自分とまったく一緒100%で同じ外見を持った人などほぼこの世にいないと、容易に見て取れますし、当たり前の前提として考えられています。
しかし、内面のことを考えたときに、物理的に目に見えないからこそ「人はみな同じなんだ」という誤った知識とか前提が子供の頃から植え付けられてきたのです。
ここで「人間みな平等」という人権の訴えとごちゃまぜに考えないようにしましょう。
「人間みな平等」という表現よりも、岸見一郎氏の
「同じではないけれど対等」
こちらの方がより適切に人間を表現した言葉だと私は思います。
男女平等の流れも、上下、偉い偉くないという立場や命の価値として対等であるという平等を訴えるつもりが、女性ならではの特性をつぶし、つぶされながら生きていく。働き方も内面の性質も、人の愛し方も男性と同じように張り合って負けないように男のラインまで女の力を持っていく、というゆがんだ方向へすすんでしまった。
はっきり言って
「みんな同じなんだ」
と思うのは間違っている
もっと適切に表現するならば
「みんな命の価値は同じなんだ。」
でも、性質も見た目もみんな少しずつ違う。命の価値は上がりもしなければ、下がりもしない。不変のもの
「みんな違ってみんないい」
「同じではないけれど対等」
ということ。
この前提を踏まえたうえで、人間には、先天性の性質と後天性の性質がある。
先天性の性質は変えることができない。でも対処・訓練・発達はできる。
後天性の性質は変えることができる。癒しやトラウマ解消によって消えていく。
このいくつかの考えを十分理解した上で、自分の内面の性質を、名称をつけて仕分け分類してほしいのです。
長い長い前提を話しましたね![]()
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今日もみなさまの心に小さな光がともりますように![]()
次回、逆エンパスについての説明をします。
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