「あなたの命は後三日です」
もし、ある時、突然そんなことをいかにも無表情な?医師から言われたら、私はどう思うのだろう。
と、考えました。
勿論、この手のことはネットで検索すればいくらでも出てくると思います。
ただ、本当にそういわれたら、私はどうするのだろう?何を感じるのだろう?
と、本気で考えてみたのです。
すると、思ったことは、
もし、私が本当に自分の命の期限を医師に宣告されたのなら、
かっこをつけるわけではなくて、
私が行き着くところは、
私はこの人生を本当に正しく生きたのであろうか?
結局、ここにたどりつくような気がしたのです。
人生を、
面白、おかしく、楽しく、生きるのもいいことです。人生は楽しくないといけません。
難しい顔をして生きている人たちにろくな人はいません。(難しい顔をして生きている方々すみません)
しかし、人生を面白、おかしく、楽しく生きたとしても、そこで本当の意味で満足できないのが、人間なのかもしれません。
それで、満足するのは、むしろ不自然で、面白、おかしく生きたなら、次のステップがあるのかもしれませんよね。
私が神様から示された次のステップというのは、それはどう正しく生きたのか。であって、その答えというのは、究極的に言うならば、それは、人のために生きる人生だと思うのです。
自己愛は素晴らしいものです。自分を大切にし、自分の好きなことをするのは、ぜんぜんわるいことではありません。当たり前ですが、親のため、回りのために生きてきた人生を、普通のカウンセリングはある意味否定します。
自分を大切にしましょう。自己愛を活かしましょう。と普通のカウンセリングは提唱します。
それは当たり前です。
そして、それは、何と素晴らしいことでしょう!
しかし、なぜだか、(大文字にしておきますね。)
時々、そのような自己愛にむなしさを感ずる人たちもいるのです。
可哀想なことに。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。(これも大文字で)
自己愛、自己愛と言っているカウンセリングはくだらなく思える。
自分はそんな俗物ではないと、どうしても思ってしまう。(自己愛は正しいのです。ただ、どうしても、そんんな自分が嫌なのです。そのことを親との関係の問題とかで、結論づけてほしくないのです。)
とは言え、
かといって自己犠牲に生きる勇気もない。
「ああ、いつも中途半端な私。自己愛はくだらないとかいいながら、自己犠牲に生きることもできない自分。そうならば、結局一番くだらないのは、いつも中途半端な私ではないのか?」
そう人たちはぜひ、クリスチャンカウンセリングを受けて欲しいのです。
というのは、そういう方々を救えるのは、イエス様だけだからなんですね。
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