キリスト教の牧師や、伝道師はこの世的に幸せであってはいけないのか? | 真夜中の伝道(死にたくなったら読むブログ)

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昼の喧騒から離れ、夜に読んでほしいです。孤独な魂に、必ず聖書の言葉が届くと信じています。

最近も


言葉を失う。


そんな型どおりの言葉なんか


はるかに通り越すほどの無残な事件が起こった。


こんな中で自分だけの幸せを思うのは罪であろうか?


と、普通の人間が考える必要はありません。


また、一般的はキリスト教の信者がそう思う必要もありません。


自分の幸せを願うのは当たり前です。当然の権利で、神様もそれを喜ばれます。


しかし、キリスト教の牧師や伝道師がこれだけの無残な事件が起こりながら、


自分だけの幸せだけを思ったら、それは逆に異常かもしれない。


かの「愛の聖霊様」がそれを容認するとは思えない。



こんなことを書いて、まさか本物のキリスト教の牧師や伝道師が


「私たちには一般的な幸せを願う自由がないのか?」と私にくってかかってくる人たちはいないと思います。


が、もしそういう人がいるとしたら、


確かに


キリスト教の牧師や伝道者は


いわゆる一般的な幸福を願う自由はないでしょうね。


と、答えるしかないですよね。