「あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。」
(聖書箇所 ガラテヤ人への手紙4章11節)
パウロも伝道については随分悩んだようであります。
あれだけパウロがイエス様の恵みを説いても、彼らはまた律法主義へと落ちていった。
律法主義は見えた目はいいのですがその内実は空っぽであります。
さて、私は律法主義というといつも思い出すのは実は私の昔の勉強方法なのです。
さて、突然なのですが、私には三つ年上の兄がいるのですが、彼はなかなか頭のいい人でした。
彼は少しも勉強しないのに、学校のテストでいい点数を取ってくるわけなんです。
私はある時彼に文句を言いました。
「兄ちゃんは元々頭がいいから勉強を少しもしなくてもいい点数を取ってくる。しかし僕は沢山勉強しても頭がよくないから、いつも点数が悪い。これは不公平だ。」
すると彼が面白いことを言いました。
「俺は一見すると勉強していないように思える。しかし、俺は例えば数学でわからない問題があったら、四六時中その問題のことを考えている。お前は机の前では勉強するが、机を離れたら勉強のことなんて少しも考えない。だから、お前より俺のほうが実は勉強してんだよ。」
私はなるほどなと思いました。
これは律法主義にもいえるのです。
彼らは教会にはいくが、教会を離れたらイエス様のことなんて少しも考えない。奉仕はするが気持ちがない。
祈りは単なる義務で、その生活全体から神様からの答えを得ようとはしない。
それに比べて本当にイエス様を信じいている者たちは一見教会に対してもいい加減に見えるし、また、不敬虔のようにも見える。
しかし彼らは四六時中イエス様の導きを求めている。
本当の敬虔とは見た目でなく中身なのだ。