さっきとあるファミレスで「トマトのなんとかリゾット」なるものを食べてみると、トマトの形態は崩れずにその形をとどめたまま煮込まれていたのです。
トマトを煮る。
この発想が私からすると悪の所業とまでは言わないが人間の傲慢のように思えてならない。
とまでは言いませんがトマトを煮てはいけない気がしてならないのです。
しかし、ふと我にかえるともしトマトの形態がなくなるまで煮込めば、私みたいな料理に対する知識がまったくない人間にはそこにトマトが入っているかどうかもわからなくなるに違いありません。
しかもあのスープの味はトマトがないと出せないのに違いないのです。
そう考えるとトマトが形で自己主張したのが間違いなのです。
トマトは消えればよかったのです。
いるかいないかわからないぐらいに、自己を殺し、他の方々の味を引き出すためにトマトはただ尽くせばよかったのです。
これぞトマトの美学なり。
私もトマトの美学を見習おう。