本音がありがたい時、邪魔になる時 | 真夜中の伝道(死にたくなったら読むブログ)

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昼の喧騒から離れ、夜に読んでほしいです。孤独な魂に、必ず聖書の言葉が届くと信じています。

昨日は敬愛する仲間達と聖書の学びの後、一緒にお茶を飲む。


話の内容は学びの延長である。


私たちの学びは「ぶっちゃけ学び」なので、そんなに簡単に「主を賛美します」なんていう人は殆どいない。


教会に「会員制度」なんて本当に必要なのだろうか、なんていう話は楽勝で出てくる。


宗教と金の話も出てくる。


勿論、人を誹謗中傷しないのは、前提であるが、話の内容は殆ど、「本音」なのである。


誰もが遠慮せず聖書を読んで感じたままを、そのまま語るである。


私にとって、こういったぶっちゃけた学びや、交わりの時は何よりも癒しであり、霊的にも力をもらえる時である。


そして昨日ふと思ったことは、私が霊的に罪に埋没していく時というのは、こういった交わりが自分にとってうざったく思える時だろうな、と言うことであった。


つまり、本音がうざったく思えるのである。


そこでかわされる本音が、自分の道を阻害するように思えるのである。


だから、それゆえ(勿論、別の理由なら全然問題はないのであるが)そのような学びや、交わりから足が遠のいてしまうのだ。


そういう意味でいえば、こういった交わりの時は自分が歩んでいる道が、主の御心にかなっているかどうかを知る手がかりにもなる。


つまりそれを知るためにも私にとってはこういったぶっちゃけ学びは必要不可欠なものなのだ。


そんなことを考えた。


仲間はそれをダイレクトに教えてくれるので本当にありがたい。


私の宝物である。