殉教ときくとすごいと思う。
偉いと思う。
口先だけではない信仰である。
立派だ。
でも、それが自分のためだったら意味がないと聖書は教えているのである。
殉教する勇気はないが常に隣人に優しく接していた平凡な人達のほうが、偉いというのが聖書の教えなのである。
私にはなんか不思議である。
しっくりこない。
人のためだろうが、自分のためだろうが、殉教のほうが華々しくてかっこよくて、立派ではないかと思う。
でも、それは私の考えのようである。
それは聖書の教えではない。
「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼けるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」
(コリント人への手紙第一 13章3節)