「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」
(ヤコブの手紙3章17節)
この手紙は新約聖書の中の「ヤコブ」と言う人が書いた手紙です。
この手紙を宗教改革の祖である「マルチン・ルター」と言う人は「藁の書簡」と言いました。
つまり、あまり価値がないと言ったのです。
聖書にケチをつけるとはなかなか図太くて生意気な人間ですが、私にも少しわかるような気がします。
まあ、「藁の書簡」とまでは言わなくても、少なくとも読み違えに注意しなくてはいけないと思うんですね。
そうでないと「喜びのおとずれ」を意味するキリストの福音が「重荷のおとずれ」に変ってしまい、間違ったキリスト教が伝えられることになると思うんですね。
でも、それは悲しいことですよね。
さて、それで、まず「行い」についてなんですね。信仰に行いは必要か?ヤコブ書に書いているようにやはり、必要だと思うんですね。
でも、神様の力によってそれを成し遂げるのがキリスト教なんですね。
しかし、信仰者は結構これで悩むんですね。
そこで、「悪魔」はここを突っついてくるんですね。
こうやってくるんですね。
「まだ、駄目だ。そんなんじゃ、駄目だ。はい、頑張れ。もっと頑張れ。そんなんで神様が善しとするわけないだろう。甘えるな!飲酒やったら地獄だ!姦淫やったら滅亡だ!悪口なんて言語道断だ!イエス様の教えを完全に守れ。イエスも同じ事をいってるだろう。『完全でありなさい』(マタイ5章48節)ってな」
でも、できない。すると、キリスト教が嫌になる。
何でこんなもの信じたのだろう?
そして、悪魔はその陰でほくそ笑む。イヒヒヒヒ・・・・・・・・・。
さて、もう一つの悪魔の手段は「行い」なんてかんけーねーと言うやつなんですね。
イエス様は「恵み」の方だ。行いなんてできるわけないだろう?やんなくていいんだよ。
もっと気軽に行こうぜ。
飲酒もOK。姦淫もOK.。悪口もOK。いいの。いいの。どんどんやりなさい。
神様は太っ腹なお方だよ。
そして、このときも陰で悪魔はほくそ笑む。イヒヒヒヒヒ・・・・・・・。
さて、聖書はなんと言っているのか?
これが大事だと思うんですね。
さて、「行い」は大切か?
前に書いたヤコブの手紙にあるようにやはり「大切」だと思うんですね。
しかし、「その実行の仕方。」
ここが重要なところだと思うんですね。
神様は「まず始めに」。(これ重要です)
神様は「まず始めに」あなたはそのままでOKだ。この確信をくださいます。
そしてその後に(これも重要です)私と共に行いを始めようと促されます。
これをキリスト教では、「恵み」と言うわけなんですね。
キリスト教にとって、「順番」というのは非常に大切なことなんですね。
「信仰」で「義」とされ、そして「行い」に移っていく。
だから、使徒パウロは「人が義と認められるのは、律法の行いによらず、信仰による」と言ったその後に、まるでその反対なようにきこえうる「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって律法を確立することになるのです」と言ったんですね。(ローマ人への手紙3章28節から31節)