ミニ自叙伝「思い出の断片 総集編2 21~40 」 | sonney「あはやさわ☆まなたから」のブログ

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吾速澤真名宝
オトとコトのライフワーカー
Cosmic Sound & Word

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ミニ自叙伝「思い出の断片21」
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 二十歳になる頃の少し前から、実家を飛び出して東京都杉並区の高円寺に住みはじめました。音楽の仕事をやるには都心に近いところに居ないと電車で帰れなくなるからです。

 

 長男であるにもかかわらず親元から離れた理由には、自分の哲学みたいなものもあったのですが、もっと深いところでは父親に対する反発心があったからだと思います。それは同時に社会に対する反骨でもあり、自由を生きる証しでもありました。世間からみると少し変わり者の青年だったのでしょうか(笑)。

 

  当時の高円寺は若者や学生たちの自由な文化が謳歌していて、とても居心地のいいところでした。定食屋も喫茶店も飲み屋も多く、ジャズやロックの聞ける店も沢山ありました。インドの特産品等を置いている店などもあり、新宿に近いわりには自由で庶民的な中央線沿線文化圏の一つを形成していました。

 

 私が最初に住んだアパートは銭湯の真ん前にあり、家賃六千円で木造二階家の三畳の部屋でした。トイレや炊事場も共同ですが、窓を開けると神田川がありました。まるで唄のようです(笑)。その当時、なぜか偶然にも「神田川」という唄が流行っていました。

 

 ピアノの練習が出来ないと困りますので、お金を貯めてコロンビアのエレピアンという国産初の電気ピアノを買いました。これで練習ができたのでバンドの仕事にもありつけたわけです。

 

 すぐ近くにミュージシャン御用達の質屋さん(笑)があり、楽器やらアンプやらを専門に扱っていました。服部質店という屋号だったと思います。随分と生命を繋ぎ止めるのに助かりました(笑)。若いということは怖いもの知らずです。

 

 この時代のこの土地の縁は、私の精神面を音楽を通した自律に向かわせるのにはすごく良かったと思います。

 

  UFOを目撃したのも先ずは高円寺でした。回転しながらゆっくりと目の前に現れました。夜でしたので色は鮮やかな黄色に輝いていました。直径15メートルくらいあったでしょうか。

 

 嬉しい気持ちになり手を振りましたら、呼応するように合図を送ってくれました。するとマグネシウムを焚いたようなものを下に投下しました。ものすごく綺麗な光でこの世のものとは思えませんでした。

 

  同じタイプの円盤は実家へ帰る途中の水戸街道沿いの松戸近辺で目撃しています。私の乗っている車と同じ速度でしばらく寄り添うように航行していました。不思議ですが幸せな気持ちになりました。 

 

 今振り返ってみますと、必然的にコズミックサウンドの発見や宇宙普遍たる法則との邂逅に繋がっていくのです。その核心たる存在を私は「御親(みおや)」と呼んでいますが、このことは別の機会に取り上げます。

 

 実は円盤の推進力こそ新しい文明のエネルギーにして、原発収束のカギであり、地磁気逆転を乗り越える宇宙法則です。これを世に問いかけることは私の使命の一つであることは言うに難くありません。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片22」
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 若いという事。そして家族や子供がいないということは、自由なようであり苦しいことでもあります。 なぜこの世に生まれたのかを問う時期でもあります。

 

 人生のどん底に陥らないように異性との出会いや結婚があるかもしれません。しかしこれも人生の墓場だという説があります(笑)。

 

 自由と責任は相反するものかもしれませんが、子供が生まれるということを機にして、この二つを満たさなくてはならないのです。と言うより、限りない義務の連続が伴います。

 

  実は人には権利など無く義務しかないのだという見方がありますがこれはその通りかもしれません。この時代に生まれてきた多くのタマシイたちは義務を果たすミタマだと言えるのではないでしょうか。

 

 「御親(みおや)との約束…」

 

 自由とは、その相対性の中のみにあります。それに引きかえ、絶対的な自由は大宇宙の御存在のみにあります。それを自覚する事が認識できれば解脱があります。しかしそれとて相対です。

 

  絶対になれない己を客観視できたらアキラめる。即ち明らめる(諦める)事ができます。そこに相対の自由を垣間見ることが出来るのです。

  「相対の認識こそが絶対の理解に至る道なり」

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片23」
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 当時の中央線沿線は、阿佐ヶ谷、荻窪、吉祥寺、立川、高尾等、それぞれ特有のオモムキがあって味わいのある街が多かったものですから高円寺を離れたくはありませんでした。ところが知り合いの獣医さんからの紹介で生後30日の子犬の親になることとなったのです。

 

 犬種はマルチーズ。私は彼を「ぺロ」と名付けました。スペイン語でPerroは犬という意味だそうです。それが故に息子・ぺロと生活できる部屋を苦労して捜しました。

 

 やっと見つけたのは渋谷区初台のマンションの8階の部屋。富士山が見えて一階がマーケットで、しかも商店街に面していました。最寄りの駅は初台で新宿から一つ目のとても便利なところでした。

 

 すぐ近くにお不動さんがあり、空海の像が建立されてありました。新宿西口公園まではよく歩いて散歩に行ったものです。都心の割には下町に住んでいるような気さくな雰囲気でした。

 

 そこは「不動通り商店街」と呼ばれています。私は此処を「サンセットストリート」となぞらえ、オリジナルの歌を作り、自分のバンドでラジオ番組に出て演奏した事があります。

 

 すぐ近くに楽器のリースや修理をやってくれる工房や貸しスタジオもあり、ミュージシャンには便利なところでした。「つのだ☆ひろ」の事務所にはよく遊びに行ったものです。懐かしいところ!

 

 人生の一大転機は此処で起こりました。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片24」
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 人生の一大転機!! 

 

 この不動通り商店街こそ、私が出した店「あめりか屋」のあったところにして、息子を授かったところでした。

 

 さて、私の体験した特異現象の多くは、最も顕著にこの時この場所で起こりました。まるで、敢えて私をターゲットにしているかの如く不思議な飛行物体との数々の遭遇。

 

 「Coffeeあめりか屋」の経営。

 

 音楽レーベル「Ladybird」の設立。

 

 超常現象。

 

 霊的現象。

 

 臨死体験。

 

 「コズミックサウンド」の発見。

 

 「Jazzてんとう虫」。

 

 精神世界・ニューエイジとの出会い。

 

 環境イベントの立ち上げ。

 

 ヤマハ音楽講師。

 

 長男の誕生。

 

 サラリーマンの経験。

 

 ニューサイエンス・ニューテクノロジーの研究。

 

 日本の道との稀有なる出会い。

 

 アジアにおける道との出会い。

 

 振り返ってみますと、不思議なことに、これらは全て一本に繋がっているのです。こんな短い年月でよくもこれだけの事が出来たものだと、自分ながらに関心します。

 

 今の私にこれだけの体力と行動力があったならと思う次第です。

 

 彌榮、いやさか!!

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片25」
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 渋谷区本町の不動通り商店街は都心のわりには下町のような人情味のあるところでした。私はその地で特異な体験をすることになるわけです。

 

 住んでいるところがビルの8階ということもあり、思索を巡らせたり瞑想をしたりするのには好都合なところでした。天気がいいときには富士山が見えます。夕方になれば茜色の空にくっきりとその姿を顕します。ベランダ越しの風景はなんと贅沢なのかと思います。

 

 偶然にも近所に二人の友人が住んでいました。新宿タムタムでバーテンダーをやってくれたS君と、銀座の店で演奏していた時の音響・照明担当のYさんです。彼らはよく私の部屋に訪ねて来てくれました。休日には夜遅くまで語り明かしました。

 

 Yさんは当時大学生でしたが、夜の仕事をしながら頑張って卒業しました。たいしたもんだと思います。今でも時々は我が家に来てくれます。

 

 さらに私には、この土地で出会った友人のカップルがいます。彼らは結婚して子供を授かりました。ご主人はカメラマンを目指していたのですが、家庭を支える為、実家の後を継ぎ僧侶になりました。今は名古屋で頑張っています。彼らともよく語り明かしました。

 

 私はこの地で不思議な出来事たくさん経験しています。それが故に世間とのギャップも感じますし、社会的な事実がどれだけ真実に近いかあるいは偽物であるか、それが手に取るように認識できてしまうことがあるのです。

 

 私がその土地で体験したことは、人生における根本的な何か、言葉を変えれば、生老病死という四つの苦に他なりません。

 

 特筆すべきは何か。

 

 *それは摩訶不思議あるいは未知なるものとの出会い。

 

 *死の体験。

 

 *そして、宇宙的法則の発見。

 

 もちろん、仏典や聖書のさらなる研鑽やクリシュナムルティとの深い霊的意識交流もありました。彼はまるで私の先生のようです。前述しましたように、私は彼が死んだ時、愕然とした事を覚えています。私は彼に出会ってから、この人以外にわが教師はいないと思っていたからです。

 

 それから暫くして決定的な事が起こりそこに留まることは出来ないと意識し、コズミックサウンドの普及・啓蒙活動に邁進する覚悟をしたのです。不思議はさらに続きます。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片26」
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 私が渋谷区本町の不動通り商店街に住んでいたころに体験した特異な出来事は、あまりにも多すぎてどこから話せばいいのかわからないくらいです。

 

 UFO現象等は高円寺にいたころから引き続いています。

 

 当時は超能力や不思議な現象に関してブームが起こりかけていました。バンド仲間で、スブーンやハガネのタチバサミをいとも簡単に曲げてしまう男もいました。目の前で何回も見ています。

 

 ところで、バンド仲間でもう一人ギターを弾く男がいました。彼はヤクザの総長の息子です。いいやつでした。今は跡目を継いでいるかもしれません。当時から彼は悩んでいました。「自分は朝鮮人でヤクザの息子だが、将来、跡目を継がなくてはならない。だけどギターを続けたい」と。

 

 そのような彼らとの早朝練習で私はスタジオに自転車で向かいましたが、間一髪で死ぬような体験をしました。朝5時起きでしかも疲れていたせいか、一瞬眠ったまま自転車をこいでしまったのです。

 

 なんと自覚する間もなく、目の前を大型ダンプがもの凄いスピードで通り過ぎて行きました。私は横断歩道を赤信号で自転車に乗ったまま渡ろうとしていたのです。いつもの道をしかも眠りながら。

 

 しかし私は事故から逃れる事が出来ました。何故ならその時、私の両手が物凄い力でしかも無意識のうちにブレーキを握ったからです。命拾いをしました。

 

 生命を守る何らかの不可思議な力…。実に有り難い。

 

 今これを執筆しながら、横たわって瞑想から睡眠へと向かっています。これが未知なる楽しみの一つでもあります。一日の死…。

 

 意識はあの世に向かいます。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片27」
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 私が渋谷区本町不動通り商店街に面している富士山の見えるマンションの8階で暮らしていた頃、精神世界の本をかなり読んでいました。 もちろんクリシュナムルティを始めとし、シュタイナー、グルジェフ等も読んでいました。

 

 面白いと思った中にはバグワン・シュリ・ラジニーシもいましたし、サイババも怪しいと思いながらも、仕事の人脈でよく耳にする名前でしたのでチェックしました。

 

 昔から愛読書は聖書であることには変わりありませんでした。ノストラダムスもフランス語原典を読み研究しました。

 

 グルジェフにはイスラムのスピリットがあり人間的な愛嬌もあり好きでした。

 

 シュタイナーにはユダヤの神秘思想があり参考になりました。

 

 二人共、音楽に熱意がありましたのでいいと思いました。 しかしナチスとユダヤの対立構造の中にあったことはあまり知られていません。霊的ライバルだと思います。

 

 バグワンはオウムの原型になっています。もちろんオウムのほうがセコいですが(笑)。

 

 サイババは単なるサギシです(爆)。

 

 圧倒的なのはクリシュナムルティ。この人の本を読むと全ての宗教や精神世界がくすんできます。不思議です。いつか会ってみたいと思っていたら亡くなりました(撃)。

 

 私には先生と呼べる人はいませんが、彼を唯一の心の師匠と仰いでいたからです。彼を権威にすることなく、心の中だけで勝手に尊敬していました。

 

 その頃コズミックサウンドを発見していた頃でしたので、彼に立ち止まる事なく進んで行こうと決心出来たのです。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片28」
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 渋谷の本町では不思議な体験をいっぱいしました。 UFOという言葉はあまり好きではありません。なぜなら、様々な時限があるからです。

 

 神様系統の乗り物から宇宙人や幽界波動、はたまた人間世界の軍事的なものに属するものまで、なかなか見分けがつかないのが現実です。

 

 いずれにせよ、三次元の我々の科学や現実を超えていることは確かです。

 

 私の住んでいたマンションの八階は最上階でしたが、そこでたくさんの不思議な事が起こりました。

 

 ある日の昼間、飼っていた子犬を屋上で遊ばせていたところ、窓も何もない長細い物体が音もなく近づいてきました。長さは十メートルほどだったと思います。全体は銀色ですが玉虫色に輝いていました。ほんの何秒かで目の前からぱっと消えてしまいました。その頃はすでに不思議な現象は日常茶飯事となっていました。

 

 新宿の高層ビルでクリスマスツリー型の銀色の物体を見たり、真っ赤に光る鳥籠型の浮遊物体を見たりしていたからです。

 

 有る時の夜、ベランダ越しから見える富士山から飛行物体が近づいて来ました。まさか私の方に来るはずなんかないと思いつつも暫く見ていますと、段々と大きくなり、ハチの大群のブーンというような重低音を轟かしながら頭上に近づいてきたのです。

 

 なんと下から見上げるとシャンデリアのように数多くのライトを輝かせながら通り過ぎて行こうとしていました。長さが30メートル位、幅が20メートル位の長方形で真っ黒な飛行物体でした。

 

 夜ですから黒く見えたのかもしれません。私は慌ててベランダとは反対方向のドアの方向に回り、頭上を過ぎ去っていく物体を追いかけました。反対側は新宿の高層ビル群です。そのまま飛行すればぶつかります。しかし物体は見つけられませんでした。音も上を通過した瞬間に消えました。

 

 まだまだ不思議なことは続きます。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片29」
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 私が渋谷区本町に住んでいた頃、希有な老人夫婦と出会いました。その人たちはお好み焼屋をやっていました。家内共々その老夫婦の人柄に引かれ、事あるごとにその店へ通ったのを今でも鮮明に覚えています。

 

 そのマスターは元々実業家でしたが、事業に失敗して本町に移り住んだ人でした。何年も通っていましたので、マスターは私たちを自分の子供のように可愛がってくれました。私と違う体験と価値観を持っていましたので、今思いますと、天が授けた教育に他ならなかったのです。

 

 マスターは戦前の大学卒で海軍の将校だった人です。これ以上の若きエリートは戦前にいませんでした。戦後はサラリーマンを卒業した後は幾つもの娯楽施設やガソリンスタンドを経営していた人です。最後は政治で失敗して70歳過ぎにお好み焼きのマスターになりました。

 

 そんな人が20代の終わりを迎えようとしている私を捕まえて、「あんたは珍しい。私が体験した事を話すから将来の参考にしてくれ。いつか合点する時が来るから。」と言うのです。その意味が今頃分かりました。

 

 マスター夫婦はよく私らを旅行に誘ってくれました。奈良や京都にも行きました。箱根にも行きました。

 

 箱根旅行の帰り道、車の運転にも疲れましたので、途中の御殿場付近にある民宿で休んで行こうということになりました。

 

 温泉に入り食事をするとすでに日が暮れていました。窓の外の正面は富士山ですが、真っ暗で見えなくなっていました。

 

 こんな日は不思議な光が見えるんですよと私が冗談まじりで話していたところ、それが現実になったのです。

 

 窓枠から見える空一面に、まるでクリスマスツリーに飾ったライトのように点滅する何十機もの飛行物体が出現しました。見事なショータイム!

 

 点滅の間隔は三~四秒位でしたが、十機位づつパッパと図形か文字を描くように付いたり消えたりしました。私たちは幸福感に満たされました。あれは何の意味があったのだろうと時々思います。

 

 まだまだ続きます。これからは睡眠瞑想…。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片30」
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 私は未知なる領域に於いて、未確認の飛行物体の存在は重要だという認識をいまでも持ち続けています。ただ一番懸念するところは、そのような現象を宇宙人の乗り物だと限定する風潮が精神世界にあることです。

 

 そのような事もあるかもしれませんが、それは未確認飛行物体の本質ではありません。何故なら、時限あるいは次元、神界あるいは霊界等の事に一切触れられていないからです。

 

 もちろん宇宙人もいるはずです。未確認飛行物体は明らかに人間の意識に反応しますし、その存在は何かのメッセージを伝えたいのです。

 

 不動通り商店街に住んでいた頃、家内の母親にクオーツの時計をプレゼントして貰いました。私は時計を腕にはめて眠る習慣はなかったのですが、なぜか銀色に光る時計が嬉しくて身につけて寝ていました。

 

 ところが朝起きて時間を確認しましたところ、ピッタリ10分遅れているのです。故障かなと思い、起きている間じゅう確認しましたが異常ありません。正確に動いていました。

 

 次の日も同じ事が起こりました。不思議な事にそれが一週間も続きました。

 

 なんと一週間続いたその次の日には時計が消えて無くなりました。

 

 何という事でしょうか。私は睡眠を取っている一週間、毎日10分間だけ、この時限と異なる領域にいたのです。

 

 しかし10分間といえども長い時間であり、この世の時間の尺度ではありません。

 

 ところでその時計は今何処に。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片31」
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 8階は夏でもクーラーが要らないくらいに心地良い風が吹いてきます。

 

 ある日ウトウトうたた寝をしていたのですが、半分は意識があるような状態でした。富士山の方角に足を向けて横になっていました。

 

 急に強い風が部屋に入ってきてハッと思い覚醒したその瞬間、何もない部屋の右の壁にサッと掛け軸が掛かり、声が轟きました。

 

 「吾は一日に三分間しか休まぬ。それに引きかえ、そなたの生き方は何だ!」

 

 私はびっくりしました。掛け軸にはその声の主の名が記されていました。その名を言う事は控えさせていただきますが、その意味は後に知ることになります。

 

 明らかに私は神様に叱られたのです。それからが更に大変な局面を迎える事になるのです。風とともにやって来て〇〇妙王と名乗る存在は私に何かを急がせました。

 

 この畏れ大き存在はかつての古代、洞窟にも鎮座していた神様です。死海のほとりの原始キリスト教エッセネ・クムランの洞窟。

 

 日本では諏訪大神として識られていますが、東洋的には青龍と呼ばれる宇宙律法の守護神です。佛教的には日月灯明佛です。

 

 久遠の存在は風の神としても顕れました。私が自分のミコト、つまり大神との誓約(ウケヒ)に気が付かないので、間もなく大変な事態に陥ったのです。

 

 それはかのマスターに呟いた言葉に起因しています。「こんな世の中ならいつ死んでも構わないですよ」と口からとんでもない事を吐いたからです。

 

 帰宅したその日の夜中、私は呼吸が出来なくなり死の淵を覗きました。何という事でしょう。

 

 私は救急車で榊原記念病院に運ばれました。そこは心臓病の権威だということです。

 

 医者の声が聞こえてきました。「もうダメだな、こんなに血圧も下がってるし。」私はその声で目を開けました。

 

 見えるのは白いスーツを着て茶髪で、しかも太い金のブレスレットをしたアンチャンでした。とても医者のようではありません。まるでホストです。

 

 私はこんなところで殺されてたまるかと思うや否やエネルギーが沸々と湧き、もう帰りますからと言って診療台から降りました。急な事ですから、その事態にアンチャン先生は呆然としていたのを覚えています。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片32」
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 確かにその頃は体を壊しても仕方がないくらいに無茶をやっていたかもしれません。仕事の合間をみてはある研究に没頭していました。なんとそれは放射能!

 

 近所に喫茶店をやりながら数々の発明や特許を持っている人がいました。言わば発明喫茶です。

 

 その店の経営者の老夫婦はとても質素で庶民的な人でした。その店のデンマークのビールがとても美味しくてよく飲みに行き、ご夫婦ととても親しい関係になりました。

 

 2~3年前に立ち寄りましたが奥様は私たち夫婦との再会をとても喜んでおられました。旦那さんは故・柳家金語楼と一緒に発明家の組織を作っていた人です。私たちはその人にとても気に入られているせいか、いろんな話しを聞く事ができました。その一つに放射能の一件があったのです。

 

 「世界の長寿の地域を調べたら、その岩盤には自然放射能があり、そこから出る水を飲むととても健康になる。また放射能の出ている岩石をガソリンに入れると燃費が一割向上する。」

 

 旦那さんは昔からその研究していたのですが、熱意と体力のある私のような人材が嬉しかったのでしょう。私は早速、石を水に浸けたりして飲んだり、すり潰して粉にして患部にあてるような研究を始めました。水は一年経っても腐りませんでした。怪我も不思議と早く治りました。もちろんその間に放射能の知識も勉強しました。

 

 ある日、旦那さんが"I"さんという九十歳にならんとしている研究家を紹介してくださいました。"I"さんは財界トップの会長の"D"さんの親友でした。

 

 "I"さんは戦前に金鉱山の経営に携わっていた人ですが、当時、かの有名で恐れられ、右翼・フィクサーの重要人物"S"氏とも交流がありました。"I"翁は"S"氏のとんでもない秘密を暴露してくれたのです。

 

 何と"S"氏は金に目が眩んで鉱山の利権を一人じめにしようとし、仲間二人を殺して穴に埋めたそうです。"I"翁はそれを目撃したそうです。

 

 今思えばなるほどと納得できます。秘密結社・右翼・統一・某アジア宗教結社等々、戦後の闇社会を動かしてきた男というのがわかります。

 

 ところでかの経済団体は"D"さんの時代で終わったと言われています。立派な人だったようです。しかし"D"さんは"T"社の社長でしたから原子炉の利権に関わっていました。その流れの中で研究グループが秘密裡に所有している核廃棄物を分散させる事になり、私も引き受けたのです。

 

 念を押されたのは、「くれぐれも秘密にしておいてくれ、使用済みと言えども、それで原爆が作れる量だから」と言われました。私は相当被曝しています(笑)。

 

 "I"翁や喫茶店の老発明家と一緒に、病院の入院癌患者のところに放射能水(笑)の臨床データの調査に出向いたことは懐かしい思い出です。国の秘密外郭団体的な動きであった事は否めません。「"D"さんがついているので研究は必ず国家プロジェクトに発展する」と信じ込まされていたからです。

 

 尚且つ、"I"翁は通産省の実験で、石油の燃費を向上させる実験もやり成功させていたからです。原油を積んだタンカーの中に放射能を発生する岩石を入れると、日本に到着するまでの期間で一割の燃費向上が得られるというものです。

 

 これは石油会社の反対で実現しませんでした。当然でしょう。会社は一割減収ですから(笑)。

 

 今思うに、使用済核燃料はその実験のために確保されていたと思うと恐ろしい。当時はそのくらいの知識だったのです。国の秘密実験に無知な民間人が利用されていました。

 

 ※その後、喫茶店のご主人は体調を崩されてなくなった。奥様も体調がすぐれず大変な状況である。その後奥様にお会いしたときに「あの黒い粉(使用済核燃料)が死んだ原因でした。」と言っておられた。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片33」
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 渋谷区本町不動通り商店街に居た頃の不思議な現象の一つにタイムスリップがあります。

 

 時は幕末のような緊迫した雰囲気でした。馬を飛ばして急いで街道を行くシーンが一つ。二つ目は民家の二階で火鉢を囲んで二人の武士が話しをしているシーンです。

 

 これは明らかに夢なのですが、家内はその時起きていました。何と家の中が江戸時代の民家の部屋に変わり、布団の上を武士が何かに用心する気配を見せながら忍び足で歩いていたそうです。

 

 深夜の同時刻に起こった不思議な共時性!

 

 二人の違う人間が同じ幕末の時代に夢と霊現象でタイムスリップしました。一体これはどうなっているのでしょうか?!

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片34」
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 私はかの〇〇妙王なる存在に叱咤激励されたことは前述しました。しかし御親なる神様との誓約(うけひ)を思い出すことが出来なかった為に病の淵に倒れたのだと思います。

 

 しばらくは体調も悪く、音楽の仕事も手に付かずに路頭に迷う日々の中にありました。音楽以外の仕事をして凌いだり、本を読みあさったり。自らの進むべき道を模索したりしていました。何故なら、病に陥る事で神様から白紙の手紙をもらったからです。

 

 冬至の日の早朝、私はこれからどうしようかと思索に耽りながら新宿高層ビルを抜けて新宿公園脇の歩道を歩いていました。目の前には長く伸びた自分の影がありました。ふと一瞬何故か振り返りましたら、高くない位置に私の背中を照らす太陽を見つけました。その瞬間私の目に涙がどっと溢れ出し、有り難い感謝の念で満たされた自分があったのです。

 

 なんと暖かいのだろう。私の命を支えてくれている存在に初めて遭遇しました。生まれてまだ味わったことのない体験でした。私はこれまでの自分の至らなさを反省し、自分の使命を大いなる存在に捧げようと決心しました。自らの命の源に気付いた瞬間でした。吾らがまことの御親!

 

 私はこうして放蕩息子なる自分と訣別することが出来たのです。そのことがなければコズミックサウンドを発見することもありえませんでした。お日様に背中を押されるようにして20分ほど歩きわが家に帰宅しました。久しぶりにピアノが弾きたくなったからです。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片35」
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 家に帰って暫くして私の中から説明のつかない衝動が起こりました。そこにあるピアノがまるで弾いてくれと言わんばかりのメッセージを放ったのです。このような事は今までにありませんでした。

 

 私はピアノに向かいました。手を鍵盤におろして一つの音をポーンと出した瞬間、そのトーンに触発されて、次から次へと音楽が泉の如く湧き出してきました。自分の意志ではなく私以外の何者かが弾いているような感じです。それも今までに聞いたことのない美しい音楽でした。

 

 私は歓喜に満たされたと同時に強烈なボルテージがかかっている事を認識しました。体験した事のない凄い衝撃です。歓喜の中にありますので辛くはありません。嬉しさのほうが勝っていたからです。

 

 弾き終わった時、私は嬉しさと喜びの余り部屋中を駆け回り、起こった事を家内に告げました。この時、家内は私の事を気が狂ったと思ったそうです(笑)。

 

 私は音のもつ意味や奥義、あるいは法則を瞬時にして理解しました。その瞬間のボルテージの高さは言葉には表現出来ません。しかも教えてくれる先生も師も介在せず、自らの内なるタマシイの中に見出だしたのです。

 

 私は「この宇宙法則を研鑽してライフワークにし、世の中に役立てたい」とせつに思いました。これがわが使命であると確信したからです。

 

 その後間もなく、この宇宙法則を「コズミックサウンド」と命名し研究開発・普及啓蒙に邁進しました。

 

 これがわが人生の放蕩性との訣別の顛末です。振り返れば長い長い、紆余曲折がありました。

 

 どうしてもこの事を発見するように仕向けられたと言いましょうか、明らかに自らのミコト(=命)を見出だすまで諦めさせなかった何かが働いています。

 

 私は自由を求めましたが、自分の人生が一度たりとも自由になった事はありません。言わば自由を求める事が不自由を生み出す事を悟り、自らの自由たる事を死する時まで放棄しました。それが法と共に在る道であると気付いたからです。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片36」
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 「法と共に在る」という覚醒の後は益々仕事が忙しくなりました。朝から2時までは財団法人ヤマハ音楽振興会の本部スタッフとしての活動。3時から夜7時まではヤマハ直営センター(新宿西口等)での音楽講師。7時半から11時頃までは会員制クラブでのピアノ弾き語り。これを土日以外は毎日こなしていたのです。

 

 息子が誕生してからは、ARのT社長と副社長である奥さんが、今までの仕事を全部辞めてうちの仕事をやってくれないかとおっしゃいました。私も家族を支えていましたので安定した仕事を選択したのです。

 

 その仕事の内容は後に譲りたいと思いますが、部署は「財団法人国際連合会」というところでした。

 

 ところが数年経って離職してくれと言われましてそれに応じました。

 

 ”自分たちの都合で呼び寄せておいて、自分たちの都合で辞めさせる。”

 

 私はTさん夫婦を信じて音楽の仕事を犠牲にしたのに、これには何たる事かと釈然としなかった思いを記憶にとどめています。

 

 しかしそれで良かったのです。なぜなら私の母が余命半年の末期がんを患っていることが判明し、私はその治療に全力を尽くすことが出来たからです。完全治癒の後、母は故郷富山県氷見市で天真爛漫・元気に暮らしております。今ではAR・T御夫妻には感謝。 ”念のために!”

 

 ちなみに、AR・T社長は今では「一貫道(天道)」というアジアの宗教組織の日本代表です。

 

 もちろん私はその組織とは無関係です。しかし日本及び世界にとり重要であることは誰よりも知っています。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片37」
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 コズミックサウンドを発見してからはその研究開発に取り組みました。ニューエイジ関係や宗教・精神世界の人たちと数多く出会ったのもその頃です。

 

 印象的なのは日立のAです。彼は故〇〇〇・ソロモンという第二のエドガー・ケイシーと呼ばれる預言者の弟子で自らをヨハネの生まれ変わりと称していました。この「〇〇ニューエイジ〇〇」にはずいぶんと優秀な人間もいました。今思うと腕の立つ人間も居た事に驚かされます。

 

 私は組織のスタッフではなく外部のオブザーバとして彼らと交流しました。しばらくして彼らはA抜きで「ブルーリボン・コミッティー」という新時代に向けた動きを提案してきたのです。

 

 メンバーの中にOさんという高島屋の社員がいました。今は台湾のミラマーという財閥の重役です。Oさんはアメリカの聖職者D.C 師に依頼して今後為すべき事やグループの使命等をリーディングしてもらいました。その書類を見たところ、ピラミッドを作った当時の波動を扱う科学者と関係があるというのです。石を軽くして積み上げる技術等々…。

 

 ところで、Oさんのお父さんが酪農をやっているというので、牛にコズミックサウンドを聞かせて実験しようという事になりました。搾乳量の結果は、品質が善くなった上に30パーセント増えました。

 

 また東北パイオニアとの共同研究でシメジに音楽を聞かせる実験もしました。良い結果が出し河北新聞やテレビにも取り上げられました。

 

 当時パイオニアは10億円をかけて、トランスデューサー(振動盤)を温室の床に仕込み、振動で野菜の収穫量を上げる実験をやっていたのですが、コズミックサウンドはスピーカーで小さな音を鳴らしておくだけでシメジの収穫量と質を増加させたのです。

 

 危惧を感じたパイオニアは共同実験を突然中止しました。テレビの取材もコズミックサウンドを流しておきながら、Oguraというキャスターは、「このG線上のアリアはすごく効果があるんですね」と確信部分をすり替えてしまったのです。嗚呼!

 

 さて、我孫子の電力中央研究所の実験では、そこの農学博士と農水省の役人、Oさん、東北パイオニアのT主任研究員らが立ち会いました。電極を取り付けた植物に様々な音楽を聞かせ、どのように反応するかを測定。

 

 なんとコズミックサウンドを聞かせた時、植物が反応してポリグラフが動いたのです! やった!!

 

 しかしその瞬間、東電の御用農学博士は怒ったように「この実験は無かった事にしてくれ。この実験があった事は口外しないでくれ」と激変しました。我々は唖然としてがっくり肩を落とした事は言うまでもありません。

 

 Oさんはこれらの事実を体験したからこそ私に理解があったのです。彼は市原にある国の実験農場にも掛け合ってくれましたが断られてしまいました。

 

 その後、ブルーリボン・コミッティーの連中が私をリーダーにし、ヒーリング・ジ・アースというイベントを立ち上げました。数人で始めたものが会議をやる毎にどんどん増えていき、最終的にはスタッフだけで200人以上! 私はテーマソングを作ったり、コズミックサウンドを演奏しました。

 

 何故こんなにスタッフや人が集まったのか。実は当時のニューエイジにはT系カルトの自己啓発セミナーの卒業生が多く、そこに様々な団体の関係者、当時無名のオウムや幸福の科学、ヤマギシズム、皇室関係などあらゆるものが参加したからです。

 

 私は嫌になり一回のイベントで終わらせてしまいました。財布の紐を牛耳られるのも納得いかなかったからです。そのまま続けていれば私は教祖になっていたでしょうか(笑) 。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片38」
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 最初にコズミックサウンドでお世話になったのは奈良の山崎敏子先生でした。先生の経営される大和郷(やまとのさと)に何回となくお伺いしたことを今でも鮮明に覚えています。

 

 山崎先生は医師であると同時に霊能者でした。大変優秀な方だったようです。しかし御主人に先立たれ女手一つで一人息子を育て上げたのですからその苦労は並大抵ではありませんでした。

また、先生ほどコズミックサウンドを気に入られた方はお医者さんではまことに珍しい!

 

 山崎先生は元・奈良県医師会の会長であり、出口王仁三郎の弟子の岡本秀月という教祖が開いた宗教組織・大元(だいげん)教の大幹部でした。

 

 遠赤外線の権威でもあり、とうてい普通の医者が手を出さないような事にも大胆に関わっていかれました。

 

 ところが、財団法人を作るときに有名な右翼のフィクサーS(32章参照)に2億円騙されてしまいました。それを機に次ぎから次へとハイエナが群がり、先生を食い物にしていったのです。

 

 私が生駒の先生宅で出会った者らは数多いですが、詐欺師ギリギリのところで上手く立ち回っている者らもかなりいました。印象的なのはテレビでも有名なドクターN、そして和太鼓を叩く霊能者のMです。

 

 また東京で紹介された人物には偽元皇族のN殿下なる者。そのほか怪しい人たちは数知れません。

 

 ところで女医・山崎敏子先生は、自分の息子を人工透析で亡くされ、本で告発された方でもあります。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片39」
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 生駒の山崎先生宅でドクターNや心霊太鼓のMらと会食をし、名刺交換をして、東京に帰ったら再度会うという約束をしました。

 

その時、Nグループは三人で来ていまして、台湾で健康施設を営む人もいました。Mグループも三人で来ていました。イラストレーターのSと測量会社社長のOです。

 

 先ずはNについてお話をします。私は赤坂の事務所に訪ねて行きました。彼は、「自分は水で動くエンジンを発明した。これで世の中が救える。また国連アースデイの日本代表に選ばれた。ついては世の中を変えたいので都知事選に出る。いろいろ手伝ってくれないか。」と私に言いました。

 

 それは素晴らしいと思いましたのでしばらく彼に付き合う事にしました。国連アースデイの第一回を芝・増上寺で実行しました。ヒーリング・ジ・アースでも演説のコーナーを設けました。しかし水エンジンは最後まで見せて貰えませんでした。

 

 後で分かったのですが、水エンジンは台湾にそのアイデアの元があり、アメリカのメイヤーという人が特許を取っていたのです。Nの発明とは真っ赤な嘘だったのです。しかも触媒から高熱が発生するため、製品にはならないシロモノです。

 

 また「ノストラダムス・エンジン2」を新たに発明したので記者会見をやるから手伝ってくれというので付き合いました。その現場で見せたのは、単なるイスラエル製の最新式太陽電池で動くプロペラでした。私は恥ずかしくなり、怒りさえも覚えました。これは明らかに詐欺です。

 

 さらには「世界天才会議で最高賞を貰った。私は世界一の発明家だ。」などと言いたい放題でした。

 

 彼のお母さんはSeiの家の信者ですが、後援会にはT協会系とSGの連中もいました。また美智子皇后を結婚に導いたと言われているKi教会の背景もありましたが、近年はT協会に乗っ取られているという噂もありました。

 

 また先述しましたように、私は国連アースデイを推進する事をNに頼まれました。国連アースデイは三月二十一日前後の春分の日時に、日本から国連に寄附された鐘を鳴らし、世界同時に平和を祝うという壮大なものです。

 

 実行しようとしているその最中、日本の他のアースデイの事務局のSuという人から電話があり、「我々の四月二十一日が正当なるアースデイであり、国連アースデイなど許せない。」という内容でした。ものすごく強い抗議でしたのでアースデイそのものが疑問になり、ずいぶんと調査せざるを得ませんでした。

 

 結局はアースデイという名称は商標貸しであって、本部は日本に二股をかけていたことが判明しました。

 

 ところで、Nと知り会うようになってからブルーリボン・コミッティーのメンバーの一人が代々木に住んでいるSi~夫妻を紹介してくれました。この夫婦は典型的な精神世界の詐欺師でした。

 

 二人とも英語がベラベラで、海外でT協会系の新聞記者をやっていました。とても豪華なマンションに住んでいて、幾人かのまじめで優秀な若者たちを住まわせていました。

 

 「意識の冒険博」という二億円のイベントを企画・創案し、発起人や実行委員に著名人の名を挙げてお金を騙す手口です。まじめで優秀な若者たちに壮大な夢と希望を与え、会社をいくつも作り社長にして投資させて食いつぶし、贅沢な生活をしていました。

 

 みんな一千万・二千万と騙されても洗脳されていて被害者だと気付くことが出来ないでいました。例えばArcという会社は自己啓発セミナーをやっていましたが、被害者であるはずの雇われ社長が次のターゲットを狙うという仕組みです。T協会系のやり方は今でも次から次へと手を変え品を変え暗躍しています。

 

 ちなみにNが受賞したガンジー賞は、後にかの宗教詐欺師の福永法源が受賞しています。

 

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ミニ自叙伝「思い出の断片40」
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 私はドクターNとSi~夫妻の両方が詐欺師だと分かりました。しかし違うタイプの詐欺師です。

 

 Si~がNに会わせてくれというので、不本意ながらも引き会わせることにしました。二人共他人から利益を奪い取るタイプです。二人は息統合しましたがSiのほうがNにメロメロになったとたんにNはSiを見くびりました。Nのほうが上手だったのです。Nは常に王様でいたいのです。貢ぎ物が欲しいのです。SiもNから何かを引き出したかったのです。この勝負Nにあり(笑)。

 

 そうこうしているうちに、ARのT社長にヘッドハンティングされた訳ですが、Si~はT社長に会わせてくれと言うのでそのようにしました。と言うのも、T社長は私の知人には積極的に会いたいと言ったからです。山崎先生にも会いたいと言いました。その事は後で述べます。

 

 ところで、T夫妻はSiに惚れ込み、会社の重要なポストを任せたいと言いました。その頃私はSiのところに住み込んでいるSaさん達が何千万円の被害にあっていた事を知っていましたので、「Si~と言う男は是々云々なる詐欺師ですよ」とT夫妻に説明したら、納得いかないような表情で「じゃあSaさんに会わせてくれ」と言いました。

 

 ところでSaさんは騙されてArcという会社をやらされたりしていました。妙なのはSi夫妻の住まいに訪ねて行ったとき、ホワイトボードの予定表に「梁山泊」と書き込まれた箇所が幾つもありました。後から分かったのですが、「梁山泊」というのは危ないパチンコのプロ組織だったのです。


 Saさんは正直にお金を投資したことをT社長に告げましたので、私が嘘をついていないことが分かったのです。T夫妻はせっかくの人材を失ってがっかりしました。気の毒に思ってSaさんをスカウトしたのですが、彼は断って、その後世界連邦の事務局長に就任しました。湯川秀樹の奥さんの湯川スミが代表でしたが、これもT協会人脈が絡んでいます。

 

 当時、T社長夫妻は人情味のある人たちだった事を付け加えておきます。