全ての人に捧ぐ「私とJAZZ」
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
私と本格的なJAZZとの付き合いはかれこれ47~8年ほど経っている。
いや本当はもっと長いのだが、古典的なJAZZをジャズとは知らずに聞いていたことは計算に入れないでおこう。
:
私が思春期の頃、先端を行っていたJAZZはモダン・ジャズと呼ばれていた。
つまりモダン・ジャズを聞き出してからそのような年数が過ぎ去ったという意味だ。
:
私が高校2年のときであったろうか、東京の実家に日大ジャズ研に所属していたNさんが下宿してきた。
彼は引っ越して来てから毎日JAZZのレコードを聞いていた。
それに合わせて達者なフルートも演奏していた。
JAZZ以外の音楽は流れてこなかった。
:
私はその音楽にすごく興味を持った。
彼も私が隣の部屋で奏でる自己流POPピアノを耳にしていただろう。
音楽を通してNさんと私の距離はすぐに縮まった。
部屋を訪ねると、とっておきのレコードを聞かせてくれた。
:
最初にかけてくれたレコードはビル・エバンスであった。
初めて耳にした。
あまりに美しいので、私は自分が独学で弾いているピアノが恥ずかしくなった。
:
当時はジャズやPOPピアノ等を教えてくれるとことがなかったので自分でやるしかなかった。
私はギターをやっていたのでギターの和音をピアノに置き換えて弾いていた。
その音はご想像にお任せしよう(笑)。
:
次に聞かせてくれたのがセロニアス・モンクであった。
私はこれなら自分にも弾けると思った。
実はそれはとんでもない思い違いであったのだが、それは別の機会に話すことにする。
:
ところで、幸いにもその思い違いが私をJAZZに導いてくれたのだから感謝せねばならない。
次の日からNさんと私のセッションが始まった。
曲はモンクの作曲と演奏で有名な「ブルー・モンク」。
Nさんのフルートの腕前は大学生とは思えないくらいに上手かった。
:
その数年後に彼と都内でばったり出くわした。
プロとして演奏しているというので、彼の所属しているバンドを新宿まで訪ねていった。
7人ほどの編成のバンドで、彼はバリトン・サックスとフルートを担当していた。
せっかく来たのだから何かやってみてとバンド・マスターが言うので、歌を2曲ほど唄った記憶がある。
:
その当時の日本では、お客さんの少ない1ステージ目にわりと好きなことが出来るので、音楽の経験を積む貴重な時間帯となっていたのだ。
:
アメリカなどでは深夜がその時間帯であるが、いわゆるジャム・セッションというものだ。
演奏するミュージシャンはチャージ(入場料等)を払わなくて済むので、このようなところからチャーリー・パーカー等のビパップなる実験的音楽が生まれた。その代わりに睡眠をとらなくて済む覚せい剤で身を滅ぼした。
パーカーはJAZZの大功労者であるが30代半ばで死んだ。
:
JAZZという音楽はその後に続くロックやポップ・ミュージック等における基盤をなすものでもあるが、のんびりやっていたら100年以上かかるものを、たった2~30年で音楽全体を底上げした。
:
奴隷として連れて来られた黒人たちがいなかったら、ガーシュインの名曲やバーンスタインや、はたまたビートルズやカーペンターズだって存在しなかったのだ。もちろん日本の歌謡曲も。「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」や「少年時代」だって確実に存在していない。もちろん私の音楽も何もかもがだ。
:
話は戻るが、Nさんと私のセッションは毎日のように続いた。
そのうち、週末になると日大のジャズ研からベースとドラムの友人が訪ねてくるようになった。高校生は私だけ(笑)。
:
何かのきっかけで、松戸の国道6号線沿いの高級中華レストランで演奏の仕事が入った。
夜の時間帯は辛いが、いい経験になるので引き受けた。
だが日大生も私も学校の授業に差し支えるので、当然のことながら週末しか演奏は出来なかった。
:
生演奏が売り物の店は朝まで客が押し寄せるので、音を絶やすわけにはいかない。
私はピアノとベースと歌ができるので、高校生の私にギャラをアップするからと話をもちかけてきた。つまり2つのバンドが必要だったのだ。それも朝まで(笑)。
:
よく体が続いたものだ。若さかバカさか(笑)。
普通の人では絶対に無理である。
1つ目のバンドはピアノ弾きがリーダーなので、そのときはベースを担当した。
:
2つ目のバンドは私がピアノを弾いたり、あるときには歌手に変身した。
こんなお遊び的音楽なのに、食事をしながら聞いているお客さんにはさぞかし迷惑であったろう(笑)。
:
あるとき、日本のJAZZの草分け的な存在であるHさんが、演奏を終えて店に遊びに来た。ビッグバンドのリーダーである。素晴らしいそのテナー・サックスの音色に感動した。
「君、うちのバンドで演奏してくれないか。ピアノを目指すんだったらちゃんとした経験を積んだほうがいい。夜11頃までなんだが千円だすから。そのかわり毎日来てくれ」。
:
私はそのバンドのメンバーとなって演奏することとなった。
この経験は前に述べているので割愛する。
音楽は恥をかかなければ上達しない。
:
私は幸いにも、高校一年のときから日本の一流の人たちに歌のレッスンを受けることができた。
また様々な経験を積んでピアノ演奏の技術も身に付けることができた。
渡辺貞夫さんがバークリー留学を終えて、Y社で学校を開いたことも幸いしている。
:
その恵比寿にあるスクールでT先生のもと、モダンジャズの和声を学ぶことができた。
主にビル・エバンスやウィントン・ケリー、そしてレイ・ブライアント等である。
そのおかげで今もこうして音楽活動が営める。
:
新宿や渋谷で店を経営し、ライブ演奏も行なったことがある。
世界最大の楽器メーカーで講師を務めたこともある。
:
ところで、音楽のスキルというものは実践で積むしかない。
学校で習っただけでは演奏活動はできない。
だから息子を育てる環境を、実際の演奏活動を通して与えたことは大きいと言える。
:
彼は私が音楽の仕事で何十年もかけて得たものを、高校生の段階ですでにそれを超えてアメリカに飛び立った。
アメリカで得たものはさらに大きい。
だがその基盤は歌と演奏を通して私が与えた。
ピアノを弾くことも膝の上に乗せて教えたので音も自然に覚えた。
音楽家やジャズとって必要な知識や土台を、私や家族と遊ぶことで身につけてしまったのである。
小さな演奏家兼作曲家が誕生した。
:
実に基礎というものは重要である。
小学校三年でトランペットという楽器を選択したとき、私も必死になって一緒に音階の指使いを研究したりビデオを見たりした。
サッチモの顔写真を見せてイメージをつくったりもした。
ジャズは未来の音楽のエッセンスをなすであろう。
:
ところでトランペットは私の専門外であるので、日本で息子に指導してくださった先生には誠に感謝している。
アメリカにおける偉大な先生にも感謝の限り。
:
全てに感謝というほかに言葉は見つからない!
:
地球の未来が愛と調和で満たされますように!
:
☆まなたから