ご訪問くださり、本当にありがとうございます。


霊や生命について書かれています。


ですから、興味がわかなかったり、読んでいて不愉快になられるのなら、迷わずにスルーされて下さいね。


あなたの大切なお時間を無駄にしたくありません。

 

 

所要時間=7~9分程 です。

ご関心があればお時間のある時にでも、ゆっくりとお読みになられて下さい。

 

 

 

 

日本のスピリチュアリズム(Spiritualism)の父とも言われる、浅野和三郎(あさの わさぶろう)氏が、

 

妻の多慶子さんを霊媒として、他界した次男の新樹さんから受け取った数々の霊界通信をもとに、

 

心霊科学研究会より昭和6年~昭和11年にかけて3冊にわたって編集・出版され、

 

昭和24年に一冊に纏められた著述の、下記復刻版より抜粋・編集しています。

 

本文復刻版・霊界通信『新樹の通信』 (潮文社)

 

原著の旧漢字は改められるだけ新漢字に変更しております。

(一部、私にて当てた漢字もあります)

 

 

 

 

 

 

 

(上記の続きです)

 

 

《  》 内は私が追記しました。

原著の体裁を変更しています。

 

 

 

新樹の通信
 

 

乃木さんと語る

(一)彼岸の調査

 

 

 

死後に於ける霊魂の存続、ならびに顕幽両界の交通・・・

 

・・・それがただ一片の理論であったのでは、一向面白くも可笑しくもない話で、大の男がこれに向って、精魂を打ち込むだけの価値は殆んどないでしょう。

で、私《=浅野和三郎氏》としては、一時も早くこの実際的方面の仕事を開拓したいと、年来熱誠をこめて来た訳ですが、それは漸(ようや)く近頃に至りて、平たくいうと、新樹の帰幽によりて、いささか解決の曙光が見え出しました。

丁度、盲目の親が、子供に手を引かれて、とぼとぼと険路を辿ると言った姿であります。

新樹の帰幽が手がかりとなりて、先づ動き出したのは彼の母の守護霊であり、次に出動したのは彼自身の守護霊でありました。

お蔭で私の為には、そろそろ彼岸との交通機関が整いかけ、どうやら暗中模索の状態から脱することができました。

時を置かずに、私は早速日本の霊魂界に向って、探求調査の歩をすすめました。

古い所では、千年二千年前に帰幽した歴史中の人物との交通、新らしい所では、十年二十年前に現界を見棄てた近代人の霊魂との連絡、

要するに殆んど八つ当り式に、霊界の門戸を叩き始めたのであります。

無論私でさえも、かくして獲たる通信全部が、全部信頼すべきものであるとは考えておりませんから、単に間接に、文書によりて、これに接するだけの機会しか与えられていない一般世間の方々は、恐らく半信半疑の域を脱することが容易にできますまい。

殊に近頃日本の出版界では、霊界通信などと銘打てる、眉唾(まゆつば)式の偽作が続出している有様ですから・・・。

が、徒(いたず)らに尻込みばかりしていたのでは、こうした新事業の開拓に、目鼻がつく見込みは到底ありませんから、私としてはいかなる疑惑、いかなる嘲笑をも甘受する覚悟で、片端(こぐち)からこれを発表して行こうかと考えています。

現在の私は、幽界に於ける我が愛児の、精一ぱいの努力が、どこまでこの道に貢献し得るかを、ひたすら考えるだけで、その他に思いを及ばす余裕とてはないのであります。

取り敢えず私がここに紹介したいと思うのは、新樹を介して、乃木大将《=乃木希典》と会見を試みた次第であります。

 

 

 

 

乃木さんと語る

(二)新樹の訪問




私が初めて新樹の守護霊(佐伯信光)に依(たの)んで、乃木さんの近状を偵察してもらったのは、昭和五年十月七日の午後でした。

すると守護霊からの報告はこうでした。



<新樹の守護霊>

乃木という方は、もう幽界(こちら)で立派に自覚しておられます。

で、私がこの方と通信を試みるのは、いと易いことでござりまするが、近代の方との交通は、やはり乃木さんを知っている新樹の方が、万事につけて好都合であります。

私は年代が離れ過ぎているので、少しもその経歴を知らず、質問をするにも、至って勝手がよくない。

むろん新樹が乃木さんを訪ねるにして、私が側に控えておるにはおりますが・・・。





この答は至極道理(もっとも)だと考えられたので、私は佐伯さんに退いてもらい、その代りに新樹を呼び出し、早速乃木さん訪問を命じました。

相変らず幽界の交通は至って敏活で、約十分間後には、早くも新樹の報告に接することができました。

新樹はいつもよりずっと緊張した、謹直な態度で語り出でました。



<新樹>


只今乃木さんに御目にかかって参りました。

乃木さんはもう立派に自覚しておられます。

生憎(あいにく)僕とても、生前直接に乃木さんの風丯(かい)に接したことは一度もありません。

乃木さんが出征された時分に、僕は漸く生れた位のものですからネ。

従って僕の乃木さんに関する知識は、ただ書物で読んだり、人から聴いたりした位のところです。

幸い僕は大連に住んでいました関係から、乃木さんが畢生(ひっせい)の心血をそそがれた、旅順口付近の古戦場には、生前何回か行って見ました。

そうそうお父さん《=浅野和三郎氏》が洋行される為に大連に立ち寄られた時にも、御一緒にあの爾霊山高地(二百三高地)に登りましたネ。

僕はあの忠魂碑の前に立った時に、いつも四辺を見回して、さぞこの高地を奪(と)るのは困難であったろうと、当年の乃木さんを偲んだものです。

で僕は、乃木さんに向ってこう切り出しました。

『私は浅野新樹と申す名もなき青年で、生前ただの一度も、あなたにお目にかかったことはございませんが、無論あなたの御名前は、子供の時分からよく存じております。

殊に大連に住んでおった因縁から、あなたの当年の御苦戦の次第は、つくづく腸にしみております。

至って弱輩の身ではありますが、共に幽界の住人としての誼(よしみ)をもって、これからは時々お訪ねさせて戴きます』


僕がそう云うと乃木さんは大へんに歓ばれました。

乃木さんは写真で見た通りのお顔で、頭髪も顎鬚(あごひげ)も殆ど真っ白で、随分お爺さんですネ。

和服をつけて、甚だ寛ろいではおられましたが、しかし風評のとおり、その態度は謹厳そのもので、甚だ言葉少なにしておられました。

僕は先づ乃木さんに向い、戦死したお子さん達の事につきて、御挨拶を述べました。

御自分の子供のこととて、さすが乃木さんもちょっと御容子が変わりました。

『子供達は、陛下の為に戦死したので、可哀想ではあるが、他の死に方をしたのとは異って、別に心残りはない』

口では飽くまで強いことを仰ってはおられました。

たしか兄さんの名は勝典、弟の方は保典というのでしたネ。

全くお気の毒なことでした。

だんだん伺ってみると、乃木さんという方は、生前から幾らか霊感のあった方のようでしたネ。

『子供達の戦死した時には、俺(ワシ)にはそれがよく判っていた』

そう言っておられました。

それから僕は思い切って、乃木さんに訊ねてみました。


『どういう理由であなたは自殺をされました? 貴い生命を、何故あなたは強いてお棄てになられました?』

僕がそう言っても、乃木さんは容易に返答をされませんでした。

重ねて訊ねますと、漸くその重い唇がほころびました。

『自分の自殺したことについては、いろいろの理由がある。

二人の子供を亡くしたのも一つの理由ではあるが、他にもっと重大な事情・・・

つまり、陛下に対し奉りて、何とも申し訳がないと思うことがあったのじゃ。

何よりもあの旅順口で、沢山の兵士を失ったこと、それが間断なく、俺の魂にこびりついていたのじゃ。

そうする中に、陛下が急にお崩御(かくれ)になられ、俺は一散に世の中が厭になった』

そう言われるのをきいた時に、僕も悲しい気分になりました。

(この方は立派な軍人だが、心の中は何んと優しい方であろう)

僕はしみじみとそう感じました。

乃木さんは死んでも、まだ忠君愛国の念に充ち満ち、しょっちゅう、明治天皇の御霊近く伺われるようですネ・・・。

 

 

 

 

「新樹の通信(19)」へ続きます。

 

 

 

 

ここまでお読み下さり、本当にありがとうございました