ご訪問くださり、本当にありがとうございます。


霊や生命について書かれています。


ですから、興味がわかなかったり、読んでいて不愉快になられるのなら、迷わずにスルーされて下さいね。


あなたの大切なお時間を無駄にしたくありません。

 

 

今回記事は少し長いです。

 

所要時間=12~15 分程 です。

 

ご関心があればお時間のある時にでも、ゆっくりとお読みになられて下さい。

 

 

以下は全て【ハンネン・スワッファー・ホームサークル(英国 1930~1981)】の交霊会における霊団の支配霊シルバーバーチの霊言です。

 

以下より抜粋・編集しました。


シルバー・バーチの霊訓

 (三)四章 「誰にでもわかる真理を」
 

《  》 内の記述は私が追記しました。

原著の体裁を編集しています。

 

 

 

 

(その1からの続きです)

 

 

このようにシルバーバーチは単純な霊的真理を説いているだけだと主張し、理屈っぽい問題には答えたがらない。

 

その理由は・・・

 

 

<シルバーバーチ霊>

 

難解な問題を回避したいからではありません。


私は今すぐ応用のきく実用的な情報をお届けすることに目標をしぼっているからです。


基本の基本すら知らない大勢の人々、真理の初歩すら知らない人が大勢いることを思うと、


もっと後になってからでも良さそうな難解な理屈を捏(こ)ねまわすのは賢明とは思えません。


今日もっとも必要なのは簡単な基本的真理・・・


墓場の向こうにも生活があること、

 

人間は決して孤独な存在ではなく、見捨てられることもないこと、

 

宇宙のすみずみにまで神の愛の温(ぬくも)りをもった慈悲ぶかい力が行きわたっていて、一人一人に導きを与えていること、


それだけです。

 

これは人間のすべてが知っておくべきことです。


また誰にでも手に入れることのできる掛けがえのない財産なのです。


そうした基本的な真理さえ知らない人間が何百万、何千万、いや何億といる以上、


われわれはまず第一にその人たちのことから考えようではありませんか。


それがわれわれにとって最も大切な義務だと思うのです。

 

 

同じ話題について別の交霊会で次のように述べている。

 

 

<シルバーバーチ霊>

 

私ども霊界の者がこうして地上へ戻ってくる目的の真意が、


ほかならぬ宗教問題で指導者であるべき人たちから曲解されております。


いつの時代にも宗教とは基本的に霊力との関わり合いでした。


それはまず地上の人間の霊的向上を指向し規制する摂理を教える使命を帯びた者が


地上へ舞い戻ってくるという事実から始まります。

 

つまり宗教の本来の目的は、人間の霊性に関わっているのです


そこから出発し、


ではその霊性を正しく発達させる上で霊界から指導を受けるにはどうすべきかを説くのが宗教の次の仕事です。

 

霊的摂理《=霊的自然法則》は広範囲に亘っています。


ところが不幸にしてそれが誤って解釈され、


その上、それとは別の意図をもった聖職者が割り込んで来たために混乱が生じたのです。


人間も根本的には霊であり、それが肉体を使用しているのであって、


付属品として霊を宿した肉体的存在ではないわけです。


肉体は霊に従属しているものです。


地上生活の全目的は、その内在する霊に修行の場を与え、


さまざまな体験を通じてそれを育み、


死によってもたらされる肉体からの解放の時に備えて身仕度させることです。

 

それから《=死んでから》本当の意味での生活が始まるのです。


従って宗教とは霊が霊として本来の生活ができるように指導するための処世訓であり道徳律であると言えます。


ところが不幸なことに、古い時代に霊の道具である霊媒と聖職者との間に衝突が生じたのです。


聖職者の本来の仕事は、聖堂や教会等、宗教的行事の取り行われる "建造物の管理" でした。


原初形態においては両者の関係はうまく行っておりました。


が、ある時代から聖職者の方が神示を受ける霊媒にばかり関心が向けられることを不愉快に思いはじめました


そしてそれまでに入手した神示を資料として、信条、儀式、祭礼、ドグマ、教説等を分類して綱領を作るという、いわゆる神学的操作を始めたのです。


今日そのどれ一つとして霊の資質や生活や発達と実質的に関わりのあるものはありません


かくして真の宗教の概念が今日では曖昧となってしまいました。


宗教というと、何かお決まりの儀式のことを思い浮かべ、


"聖典" と呼ばれるものを読み上げることと考え、


讃美歌を歌い、


特別な衣装を着ることだと考えるようになりました。


何やら難しい言説を有難く信奉し、理性的に考えれば絶対におかしいと思いつつもなおそれにしがみつきます。


私たちはいかなる神学、いかなる教義、いかなる信仰告白文にも関心はありません。


私たちが関心を持つのは、人間の霊性であり、

 

私たちの説くこともすべて、絶対的に従わなければならないところの霊的自然法則に向けられています。


人間のこしらえたものを崇めるわけにはいきません。


宇宙の大霊によって作られたもののみを実在と信じます。


そこに宗教の捉え方の違いの核心があります。


人のために役立つ行為、

 

霊性に動かされた行為、

 

無私と利他的行為、

 

自分より恵まれない人へ手を差しのべること、

 

弱き者へ力を貸してあげること、

 

多くの重荷に喘ぐ人の荷を一つでも持ってあげること


・・・これが私たちの説く宗教です。

 

 

"神とイエスと聖霊は三にして一、一にして三である" などと説くことが宗教ではありませんし、宗教的であるとも言えません。


それを口にしたからといって霊性はみじんも成長しません


朝から晩まで讃美歌を口にしたからといって霊性が増えるわけではありません


バイブル(キリスト教)を読んでも、
タムルード(ユダヤ教)を読んでも、
コーラン(イスラム教)を読んでも、
バガバッド・ギーター(ヒンズー教)を読んでも、


その他いかなる聖なる書と呼ばれるものを目が疲れるほど読んでも、

 

それだけで霊性が成長するわけではありません


"宗教的" とみなされている行事をすべて行っても、

 

それによって一層価値ある人生へ魂を鼓舞しなければ、


言いかえれば、内部の霊性を少しでも多く顕現させることにならなければ

 

私たちが考えている意味での宗教的人間になるわけではありません。


ラベルはどうでもよいのです。
形式はどうでもよいのです。
口先だけの文句はどうでもよいのです。


大切なのは 行い です。
行為 です。

 

つまり各人の毎日の 生活 そのものです。

 

私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。


つまり誰一人としてその神の摂理のウラをかくことはできません。

 

ごまかすことはできません。


自分が自分の救い主であり、贖(あがな)い主であり、


自分の過ちには自分が罰を受け、

 

善行に対する報酬も自分が受ける、


と説くのです。

 

また神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。


すなわち、親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的にそれ相応の結果をもたらして霊性を高め、


反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。

 

この法則は変えようにも変えられないのです。


みっともない執行猶予も安価な赦免もありません。

 

神の公正が全宇宙に行きわたっております。


霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。


死の床での悔い改めも通用しません。

 


広大なる宇宙で生じるもの全てに責任を持つ大霊(神)の不変にして絶対的威力を有する摂理に目を向けましょう。


私たちは常にその摂理を念頭に置いています。

 

 

なぜなら私たちの説く神は、人間的弱点や人間的激情、人間的憤怒に動かされたり、好きな人間と嫌いな人間とを選りわけたりするような、

 

そんな人間的存在ではないからです。

 

 

私たちの観る宇宙は法則によって支配されています。


すみずみまで行きわたり、これからも常に存在し続ける法則です。


地上の人間がこれまであまりに永いあいだ振り回され隷属させられてきた、

 

誤った概念と虚偽、偏見と無知を無くしていくには、


地上の生命現象と生活現象のすべてが、

 

その絶対的法則によって支配されていることを教える以外にはありません。


その知識が少しでも増えれば、それだけ理解力も豊かになることでしょう。


真の美しさを遮っていたベールが取り除かれ、

 

有限の地上的存在の視野を超えたところに存在する、

 

より大きな生活を少しでも垣間見ることになるでしょう。


かくして私どもは常に神の永遠の自然法則、

 

絶対に狂うこともなく、過ることもない法則、

 

地位の高い低いに関係なく、

 

全ての存在に等しく働く法則に忠誠と感謝の念を捧げる者です。

 


誰一人おろそかにされることはありません。


誰一人見落とされることはありません。

 

誰一人忘れ去られることはありません。

 

誰一人として一人ぼっちの者はいません。

 

 

法則の働きの及ばない人、範囲からはみ出る人など一人もいません。


あなたがこの世に存在しているという事実そのものが神の摂理の証です。


人間の法律は機能しないことがあります。

 

改められることもあります。


人間の成長と発展に伴って視野が広がり、知識が無知をなくし、環境の変化に伴って新たな法令が要請されたりすると、


従来の法律が廃止されたり別の法律と置きかえられたりすることもあります。


しかし神の法則には新しい法則が付け加えられることは絶対にありません。

 

改正もありません。

 

解釈上の変化も生じません。


いま機能している法則は、これまでもずっと機能してきた法則であり、これからも変わることなく機能していきます。


一瞬の休みも無く機能し、そして不変です。

 

 

 

(終)

 

 

 

(ブログ管理者追記)

 

記事の中でシルバーバーチ霊が以下のように説いていました。

 

親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的にそれ相応の結果をもたらして霊性を高め、


反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。

 

結局、私たちが地上生活を生きていようと、肉体を脱ぎ捨て霊の世界で生きていようと、

 

私たち一人ひとりの魂の永遠の旅路の道程やそこでのドラマの内容は、それぞれの魂の携えているその時点での霊性が決めているということになります。

 

私たち一人ひとりが神から授けられた神性をどれだけ発揮して、私たち自身の霊性をどれだけ高めてゆくのか・・・

 

逆に神性を神から期待された通りに行使せず、あるいは神性を発揮することなく、どれだけ霊性を低めてしまうのか・・・

 

各自の神性の発揮の仕方と、それによって働いた摂理によって高められたり、落とされたりした霊性に相応しいカタチでさらに霊的自然法則が働くということです。

 

因果律をはじめとした霊的自然法則・摂理の働き方も、

 

行使できる自由意志の範囲も、


一人ひとりの霊性に応じたものとなるが故に、

 

一人ひとりの魂の旅路の様相も自ずとその霊性に相応しいものになってゆく…と言えます。

 

 

ここで誤解があるといけないのでお伝えしますが、以前の記事でシルバーバーチは次のように言っていました。

 

それは・・・

 

この地上世界では、正義が必ず悪に勝つとは限らない、

 

地上世界だけで因果律、摂理の成就、結果についての判断は下せない、

 

ということです。

 

神が完璧であるからには、霊的自然法則・摂理は、その行為と霊性に応じて、

 

もっとも相応しい時期に相応しいカタチで、

 

作動するようになっているはずなのです。

 

物質社会では、不完全な人間が作った、不完全なルールによって、

 

不完全な報賞・懲罰が与えられたり、

 

逆に、見落とされたり、見過ごされたり、見逃されたりします。

 

 

凶悪な殺人犯、犯罪者や民のために為すべきことを為さずに私利私欲に生きたうえ、

 

地上での裁きを免れて、立派な葬儀まであつらえてもらい、

 

地上での生を終える人たちがいるように、

 

一方で、社会の片隅で人知れず小さな善行・奉仕を積み重ねながら、

 

何の脚光も浴びず、何ら物的報賞も得られずに、ひっそりと生を終える人たちもいます。

 

ですが、一人ひとりの霊性は実に正直でごまかしがききません。

 

地上世界で見過ごされたり、見逃されたりした善行や悪行があっても、

 

必ずそうした善行や悪行に対しては、

 

霊の世界にて、神の天秤が完璧な平行を保つように取り計らわれています。

 

 

拙ブログのカテゴリ『死後の幸福感』で、

 

地上人生ではただ辛い苦しい人生を送ったり、

 

地道にひっそり善行を重ねて暮らした方々が、

 

その他界後には、次のように語っています。

 

「霊の世界での幸福を知ってみれば、地上での幸福などは、まったく何ほどのこともない」

 

「自分の怠慢によって天国で失うことになる喜びなどに比べれば、地上にいる間に手に入れたくて仕方がなかった他人の喜び《=称賛の声》など、本当に何ほどのこともない」

 

「地上での辛い経験や苦悩は何ということもありません・・・あなたがたには、幸福という言葉の本当の意味は分からないでしょうね」

 

「地上で幸福と呼んでいたものなど、まったく何ということもなかった」

 

・・・と。

 

各自が地上人生で身に付けた高い霊性に相応しいだけの霊的報賞が、

 

摂理によってその他界後にもたらされ、

 

天秤が平行に釣り合うことになったというわけです。

 

ですから、逆の場合も同じことが言えるはずです。

 

「霊の世界で神の摂理によって霊的懲罰を受けている人間でなければ、不幸という言葉の本当の意味は分からないでしょうね」

 

「地上での不幸など、霊の世界での不幸に比べれば、何ほどのものでもない」

 

・・・と。

 

 

霊性は霊・魂の属性であり、本性であり、魂が永遠に携え続けるパスポートであり、身分証明書です。

 

霊の眼と神の摂理から観れば、どこにいても誰から見ても、その霊性は一目瞭然です。

 

物質的、金銭的、この世的な報賞でどこまでも癒やされ、どこまでも幸福を覚えられる方々は、それで満足されるがよろしいかと思います。

 

でも、霊的な報賞を受け取ることに喜びを感じる方々は、間違いなく前述の方々と比較出来ないくらいにはるかに幸せな方々です。

 

霊的な報賞のうち、受け取って最も嬉しい報賞は、【霊性が高まること】・・・と言って間違いありません。

 

親切、寛容、同情、奉仕の行為・・・

 

大きな、でっかい事をするわけでもないのです。

 

日々の生活の中で、他者や生きとし生ける者たちへのそうした小さな行為が、

 

摂理を通して自動的に霊性を高めてゆくものなのです。

 

そして、自身の波長・波動・バイブレーションも自然に高くなってゆきます。

 

自身の波長・波動・バイブレーションを高めるには、

 

こうして自分自身の行いによって霊性を高めることでしか方法はありません。

 

いかなるヒーリングも、いかなるセラピーも、いかなるセションも・・・

 

誰か他から何かをしてもらうことで、波長・波動・バイブレーションを、

 

ましてや、霊性を高めることなど出来ません。

 

ワクワクすることで、楽しく快活な気持ちでいることで、

 

波長・波動・バイブレーション・霊性を高めることなど出来るはずがありません。

 

本当は、反対に、苦しみに向き合って、耐え忍んでいるその最中にこそ、

 

魂の浄化がゆっくりと進み、

 

自身の霊性や波長・波動・バイブレーションが高められてゆくものです。

 

自身の日常生活によって、摂理を通して、自分自身で高めてゆくしか方法がないのです。

 

そして、私たちが神から授かるもの、受け取ることができる霊的報賞もまた、

 

私たちの一人ひとりの今の霊性に相応しい分だけです。

 

いかなる引き寄せ、いかなる親和性であろうと、法則・摂理は、あなたの霊性に相応しいだけのものしか、もたらしません。

 

 

実は、私自身は、"スピリチュアル" というカタカナ言葉は使いたくない、語りたくない人間です。

 

私には、世の中で言われているところの "スピリチュアル" というラベルの実際の中味が全く以て意味不明だからです。

 

今の世の中で "宗教"と呼ばれているものが意味不明で不可解に感ずるものであるのと同じように、

 

"スピリチュアル" と呼ばれるものも、一体全体、何のことだか私には分からないのです。

 

ですから、この拙ブログも "スピリチュアル" として標榜することはしておりません。

 

大切にしているのは霊的真理とその実践です。

 

 

人間個性の死後存続、

 

神の自然法則が歴然として存在し、その摂理と調和しながら生きること、

 

自分を他のために役立てること、

 

地上生活はもともと "苦" に相当する体験をするための大切な境涯であること、

 

真の愛の繋がりは永遠であること

 

霊性は魂のパスポートであり身分証明書であること、

 

私たちはその霊性を向上進化させるための永遠の旅を続ける永遠の霊的実在である、

 

 

どこまでも未熟者な私の大したことない日常生活などではなく、

 

こうした基本的な真理を訴える霊の世界からの霊示をお伝えすることが

 

ここのブログの目的です。

 

 

偏屈者な私で、つまらないブログですみません。

 

 

 

ここまでお読み下さり、本当にありがとうございました。