ご訪問くださり、本当にありがとうございます。


霊や生命について書かれています。

 

ですから、興味がわかなかったり、読んでいて不愉快になられるのなら、迷わずにスルーされて下さいね。

 

あなたの大切なお時間を無駄にしたくありません。

 

この記事は「死および死別の悲しみ」について、霊界側ではどう見ているか?という霊言です。

 

お読みになられる人によっては、その心証をひどく害するかもしれません。

 

お読みになられることが耐え難く、無理だと思われたのでしたら、すぐにおやめ下さい。

 

なお、利己的な動機による自死や利己的な人生を送った場合の死などには、以下の霊言はそのまま当てはまりません。

 

 

以下は全て【ハンネン・スワッファー・ホームサークル(英国 1930~1981)】の交霊会における霊団の支配霊シルバーバーチの霊言です。


お断り: 《 》 内の記述は私が追記しました。


以下より抜粋・編集しております。


 シルバー・バーチの霊訓(三)二章 「悲しい時、苦しい時こそ」
 シルバー・バーチの霊訓(三)五章 「もしも シルバーバーチがテレビに出たら」

 シルバー・バーチの霊訓(三)十章 「前世・現世・来世」

 

 

(始)

 

私は地上の人たちから "死んだ" と思われている者の一人です。


《死んだことによって》存在しないことになっているのです。


私は本日ここ《=交霊会サークル》にお集まりの方々による集団的幻影に過ぎません。


私は霊媒の潜在意識の産物です。


私は霊媒の第二人格であり、二重人格であり、多重人格であり、分離人格です。


これらの心霊用語のどれをお使いになっても結構ですが、私もあなたと同じ一個の人間です。


ただ私は今あなたが使っておられる肉体をずいぶん前に棄ててしまいました。

 

あなたと私の根本的な違いはそれだけです。

 

あなたは物的身体を通して自分を表現しているスピリットであり、


私は霊的身体を通して表現しているスピリットであるということです。


私は、ほぼ三千年前に霊の世界へ来ました。


つまり、三千年前に "死んだ" のです。

 


いったい、何を悲しむというのでしょう。

 

死に際して悲しみを抱くということは、まだ進化が足りないことを意味します。

 

本当は地上に留まること自体が苦痛であり、

 

地上を去ることは苦痛から解放されることであり、

 

暗黒の世界から出て光明の世界へ入ることであり、

 

騒乱の巷(ちまた)から平和な境涯へと移ることを意味することを思えば尚のことです。


地上生活を地上生活だけの特殊なものとして、区切って考える習癖を改めなくてはなりません。


つまり、一方に物質の世界だけに起きる特殊な出来ごとがあり、

 

他方にそれとまったく異質の、霊的な世界だけの出来ごとがあって、

 

その二つの世界の間に水も漏らさぬ仕切りがあるかのように考えるその習性から卒業しなくてはいけません。


あなた方は今そのままの状態ですでに立派に【霊的な存在】です。


死んでから霊的になるのではありません。

 

違うのは、"より霊的になる"という程度の差だけであって、本質的に少しも変わりません。


あなた方にも霊の財産であるところの各種の才能とエネルギーが宿されているのです。


今からあなたのものなのです。


肉体に別れを告げたあとで配給をうけて、それを霊体で発揮しはじめるというのではありません。

 

今日、今こうしている時からすでにそれを宿しておられるのです。


言わば居睡りをしながら、時おり目を覚ます程度でしかありませんが、ちゃんと宿していることには違いありません。

 

死ぬということはバイブレーションの問題、つまり、波長が変るということにすぎないことを認識してください。


知覚の仕方が変るだけのことと言ってもよろしい。

 

日常生活で固くてしっかりしていると思っているものとまったく同じ、

 

いえ、もっともっと実感のあるものが、たとえあなた方の目に見えなくても、立派に存在しております。

 

"生" を正しい視野で捉えていただきたい。


その中で "死" が果たしている役割を理解していただきたいと思います。

 

人間はあまりに永いあいだ死を生の終りと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼(いた)むこと、嘆くことで迎えてきました。

 

私どもはぜひとも "無知"・・・死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れとみなす "無知" を取り除きたいのです。

 

 

そして、死とは、

 

第二の誕生であること、

 

生の自然な過程の一つであること、

 

人類の進化における不可欠の自然現象として【神が用意したもの】であること

 

を理解していただきたいのです。


死ぬということは、生命を失うことではなく、別の生命を得ることなのです。

 

肉体の束縛から解放されて、

 

痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、

 

叶えられなかった望みが叶えられる、

 

より豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。

 


死の関門を通過した人はカゴから放たれた小鳥のようなものです。


思いも寄らなかった自由を満喫して羽ばたいて行くのです。

 

人間が死と呼ぶところの看守によって、肉体という名の監獄から出させてもらい、

 

(原則として《※1》)それまでの肉体に宿っているが故に耐え忍ばねばならなかった不平等も不正も苦しみも面倒もない、

 

より大きな生へ向けて旅立ったのです。

 

霊本来のかぎりない自由と崇高なよろこびを味わうことになるのです。

 

苦痛と老令と疲労と憂うつとから解放された人をなぜ悲しむのでしょう。

 

暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。

 

霊の本来の欲求である探究心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。

 

それは間違っております。


その悲しみには利己心が潜んでいます。


自分が失ったものを悲しんでいるのです。

 

自分が失ったものを自分で耐えていかねばならないこと、

 

要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。


それは間違いです。


もしも霊的真理に目覚め、無知の翳(かす)みを拭い落した目でご覧になれば、愛するその方の光り輝く姿が見えるはずです。

 

死は決して愛する者同士を引き離すことはできません。


愛はつねに愛する者を求め合うものだからです。


あなた方の悲しみは無知から生じております。


知識があれば、愛する者が以前よりむしろ一段と身近な存在となっていることを確信できるはずです。


霊的実在を悟ることから生じるよろこびを十分に味わうことができるはずです。


皆さんもいずれは寿命を完うして、その肉体に別れを告げる時がまいります。


皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ棄てる時が来ます。

 

霊が成熟して次の進化の過程へ進む時期が来ると自然にはげ落ちるわけです。

 

土の束縛から解放されて、死の彼方で待ち受ける人々と再会することができます。

 

その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。

 

そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです。

 

人間は不滅なのです。
死は無いのです。

 

 

あなた方が涙を流して嘆き悲しんでいる時、

 

その人はあなた方のすぐ側に黙って立っている・・・"黙って"、というのは、

 

あなた方が聞く耳をもたないために聞こえないことを言っているまでです。

 

本当は自分の存在を知らせようとして何度も何度も叫び続けているのです。


あなた方こそ死者です。

 

本当の生命の実相を知らずにいるという意味で立派な死者です。

 

 

神の宇宙の美が見えません。


地上という極小の世界のことしか感識していません。


すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。


愛しい人たちはそこに生き続けているのです。


そしてその背後には、幾重にも高く界層が広がり、

 

測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、

 

その体験から得た叡知を役立てたいと望んでいるのです。

 


見えないままでいたければ、目を閉じ続けられるがよろしい。

 

聞こえないままでいたければ、耳を塞ぎ続けられるがよろしい。

 

が、賢明なる人間は魂の窓を開き、人生を生き甲斐あるものにするために勇気づけ指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。

 

 

あなた方は神の子なのです。


その愛と叡知をもって全宇宙を創造した大霊の子供なのです。


その大霊とのつながりを強化するのは、あなた方の理解力一つです。


もし教会がその邪魔になるのであれば、教会をお棄てになることです。

 

もし邪魔する人間がいれば、その人間と縁を切ることです。

 

もし聖典が障害となっていると気がつかれれば、その聖典を棄て去ることです。


そうしてあなた一人の魂の静寂の中に引きこもることです。


一切の世間的喧騒を忘れ去ることです。


そして、身のまわりに澎湃(ほうはい)として存在する霊的生命の幽(かす)かな、そして霊妙なバイブレーションを感得なさることです。


そうすれば、人間が物的身体を超越できることを悟られるでしょう。


知識に目覚めることです。
理解力を開くことです。

 

いつまでも囚人であってはなりません。


無知の牢獄から脱け出て、霊的自由の光の中で生きることです。

 

 

《※1》

あくまで原則として・・・である。

利己的な動機による自死や利己的な人生を送った場合の死などにはこの原則は該当しません。

 

 

 

(終)

 

(くどいようですが、利己的な動機による自死や利己的な人生を送った場合の死などには、上述した霊言はそのまま当てはまりません)

 


 

(ブログ管理者追記)

 

 

「死ぬとどうなるのか」・・・それは、このブログの過去記事でたくさんお伝えしてきている通りです。

 

この霊言がいつの年に為されたものなのか記されていませんが、シルバー・バーチ霊は、とても、辛辣に死別の悲しみの理由を説いています。

 

そして、知識と確信がその悲しみの時間を縮めたり、流す涙をもっともっと減らすことが出来るんですよ・・・と力強く励ましてくれているんだと私は思っています。

 

世の中、そんな"知識"を持っていなくても、なんとか、大切な人との死別を乗り越えて来られた方々ばかりなのでしょうけれど(^^;)、

 

日本の場合、いっとき、ス○リチュ○ルがテレビ等を通してブームとなり、それで慰められた方々も実際に大勢いらしたようです。

 

私の場合は、こうした知識を腑に落ちるまで調べ続けて、自分の理性も納得したうえで、

 

大切な人たちが今ではあっちの世界で活き活きと輝きながら生活していることとか、

 

また、こっちの世界にも時々やってきては、私自身のすぐ傍で一緒に過ごしてくれていたり、

 

精神的にも支えてくれていることの確信を持っています。

 

そして、ちゃんとこの人生を生き抜いて寿命を完うすれば、いつの日か、こちらよりずっと素晴らしいあっちの世界で再会して、

 

一緒に過ごす時間を持てる、また手を握って一緒に歩いたり、一緒に宙を飛んだり、ぎゅう~っと抱きしめ合うことが絶対出来るって、

 

普通にそのように思えているから、その希望や楽しみもパワーの一部として、残りの人生を生きていけるようになっています。

 

さらに何よりも、〇〇〇を始めとして、大切な人がどこにいようと、やはり、今のこの私の人生は私自身の人生であって、

 

私自身が創りあげてゆくものだという想いが、彼女の他界を超えて一層強くなりました。

 

ただの知識とは言え、私の場合、それは単なる知識ではなくって、信仰に近い、とても大切な知識であり、訓えであり、力強く生きるための叡智でさえありますし、

 

母や〇〇〇にとっても、私自身がそうした知識と信仰を携えて、死別の悲しみに暮れることなく、愛の念を贈りながら毎日を生きていられる事こそ、(ありきたりな言い方ですが)本当の意味での供養になっているはずです。

 

私は今、介護のお仕事をはじめ、人や生きとしいけるものたちのために、自分を他のために役立てながら、悔いのないように自分が出来ることをしているつもりです。

 

もちろん、今でも時には凹んだり、沈んだり、立ち止まったりもしますが、

 

でも、残りの時間は有限だから、下を向いて沈んだその後には、やっぱり、顔をあげて、しっかりと空を見上げて、そうして、前に前にと進んでゆきたい。

 

もう、それしか私には出来ません。

 

「死にたい」なんて、自分自身に二度と思わせないし、絶対に言わせない・・・そう心に刻んでいます。

 

少なくとも私にとっての "知識" とは、そこまでのエネルギーを生み出してくれている、本当に大切な宝物の一つです☆


そして、この宝物に導いてくれた私の守護霊には本当に感謝です(*^^*)

 

 

 

ここまでお読み下さり、本当にありがとうございました