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「ごめん」は自分を下にして相手に許しを請う言葉だ。その一方で、「ありがとう」は対等な立場で助かった、ありがたいな、といった気持ちを伝える言葉だ。僕は「ありがとう」な時に「ごめん」とか言ってしまって後悔したことがある。
僕は大変な思いをさせて自分のために何かをしてくれた人に対して「ごめん」と「ありがとう」で迷うことがある。そんな時、基本的には「ありがとう」を選ぶ。僕が相手を汚してしまったのであれば別だけど、自分を犠牲にしてまで僕に何かをしてくれたのであれば「ありがとう」が適切だ。声をかけられる側からすると、「ごめん」て言われるのと比べて、やってよかったな度は遥かに大きくなるから。さらに「ありがとう」はお互いの気持ちを暖かくする。そんなだから自分の感謝の気持ちは正しい形で表現しないといけないなって強く思う。
組織をリードする立場に立つほど、このようなことの重要性は増す。感謝は組織を一つにまとまることの土台になるものだと思っている。アメとムチも必要だとは思うけど、感謝と敬意みたいなことによる感情の結びつきなしに些細な損得を超えた長期の協力は難しいと思う。
僕はかつてプロジェクトリーダのメンバへの陰口にウンザリさせられてしまったことがある。場所を変えれば、どうせ僕も彼らと同じなんだって。リーダからすれば、そうした不安によるコントロールに頼る以外、メンバをまとめあげる術を持っていなかったようだ。そんな環境下でメンバの判断の基準はターゲットにされないことになるから、自分の持ち場を無難にってことで、全体の成果に関心を持つことが難しくなってしまう。残念だけど仕方ないことだ。旧東欧諸国の偏った権力構造からもたらされる非効率みたいに。
逆に懸命さによる成果を認めて、感謝してくれるリーダのもとでは、ヤル気全開で、それこそ仕事していることを忘れてしまうほどで、眠れない夜さえも、夜明けまでにはけりをつける!みたいなスリリングな挑戦になる。「お前だから出来た」とか言われてしまうと、まだまだいけてしまう。メンバ間の衝突はありながらも、それは良い仕事をしたいがための遠慮のない自由な意見、情熱のぶつかり合いだということをお互いは分かっている。そんな経験が今の僕にとってメンバの能力を引き出し組織として最大限の成果を上げることのモデルとなっている。そのままパクっても上手く適用出来ないこともあるけど、このような経験で人への信頼による力を実感出来たことは僕の人との関わる姿勢を変えてくれた。ホントありがたい一生もののプレゼントだ。
感謝に基づく加点主義のワクワク感は減点主義のヤレヤレ感では得られない成果、満足をもたらす。
終戦後間もない混乱期に首相を務めた吉田茂は右腕である白洲次郎と共に、多くの思惑が渦巻く中で、白洲次郎に汚れ役を担わせたりもしながら、ドン底から日本がのし上がっていく、いしづえを築いていった。無地に占領からの独立を果たし、安定を取り戻した後、吉田は役割を果たし自分のもとを去っていこうとする白州と次のような会話を交わす。
吉田:今まで、本当のことをはっきり言ってくれたのは次郎、お前を置いて他にいない、お前だけだ。・・・・すまなかったね。
白州:こういう時は すまない じゃなくて ありがとう というべきなんだ。
吉田:そうだね、、、そうだね。
「NHKドラマスペシャル 白洲次郎 」より
いろいろ謝まりたいことがある、今は生きていない母にたいして僕は「ごめん」ではなく「ありがとう」と語りかけるようにしている。その方が僕の心の中でずーっと生き続けている母は何かと嬉しげに微笑んでくれるのだから。
Live Forever(OASIS)
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