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囚人のジレンマとはライバル関係にある二人がいたとして、互いが協力することなく身勝手に自分だけの利益を優先した結果、互いが協力していた場合と比べ得られる利益が小さくなってしまう残念な状態のこと。
例えば冷戦構造下のアメリカとソ連の軍拡競争。互いに核ミサイルの開発に莫大なお金を投じた結果、両国の経済力を弱めることになってしまった。さっさと軍縮の話し合いの場を設けて、疲弊しあっている現状を一刻も早くやめ、互いの国益のため、お金を前向きな方向に使っていけるようにしよう!このままの継続は漁夫の利みたいなことで僕等以外を利するだけであって互いに失われることの方が大きいって認め合うのには非常に長い時間を要した。両者共に相手は強欲だから裏切るかもしれない、そうなった場合、パワーバランスの観点からの著しく不利な状況に置かれてしまうって疑念が深かったから。
次に芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の話。地獄から這い上がるために天から降りてきた蜘蛛の糸を登る主人公。でも、主人公の後にも次から次へと罪人が登り始める。見かねた主人公が「切れるだろ!これ俺の糸だからお前ら降りろ!」って発した瞬間に糸が切れ、皆、地獄に真っ逆さま。小学校の時にテレビで演ってたこの話を見て「自分だけ」に対する醜さ、格好悪さを強く感じた。
さらに僕の親も他を顧みない強欲だけの人を、あまり良くみていないことは何となく伝わってきていたので、何時からか「自分が少し損するくらいが丁度良い」って思うようになった。決して、愛こそが全て、お金なんて、ってことではない。あくまでも、自分だけよければよい、他人のことなんて知ったことではないってスタンスはみっともないってことだ。
でも社会に出て家族を持って、そのような考え方は変化した。社会に出ると多くの思惑が渦巻いている。少しでも効率的に成果を出すことで競争を勝ち抜き多くの報酬を手にする、というとキレイに聞こえるけど、そんなメルヘンなことばかりでなく、人を蹴落とす、利用する、ハッタリかます、みたいなことが競争の中で普通にあったりするから「少し損をするくらいが丁度良い」とか思っていたら「こいつには多少のことしても許される」みたいなことで、とんでもないことになる。丸腰で戦場にいくようなものである。そんなでは家族は守れない。
水は高きより低きに流れる。時としてモラルは置き去りにされて。
だから、互いの利害を踏まえた上での協力が大前提になる。「どうぞ、どうぞ」って控えめな眠たいことを言っていると、バブルの頃の「アッシー君」「メッシー君」みたいなことになってしまう。相手の要求を予想しておいて自分はどこまでだったら協力できて、互いにハッピーになれるか事前に考えておく。自分が失われるだけの過度の安請け負いはしない。そういうことは長い目で見て、互いにとって良いことなんて何もないから。そんな素敵な協力関係を築くためにも、この人といたら何か良いことが起こりそうだって思われる魅力的な自分にならないと!って強く思う。一時、相対とか客観って言葉が嫌いで、自分だけが理解できる独自の価値観があればそれで良いって内向きな時もあったけど、やはり他者との比較によって差別化できる、相対的かつ客観的に評価される、武器のようなものは必要だ。
僕の大好きな作家の北方謙三さんは、よく「男はタフでないといけない」って言っていた。何となく格好いい言葉だなって思いながらも少年の時の僕はイマイチ意味を掴みきれなかった。でも家族を持つようになって何となく分かった気がする。外でジレンマと闘い傷みを背負ながらも、内では子供たちに、そういった素振りを一切見せることなく、笑って過ごす、そんな強さを、ゆっくり、ゆっくり彼らに背中で伝えていく、そういうことがタフなんだって僕は思っている。とは言ったものの、八つ当たりしてしまうこともないわけではないけれど。
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