ドアの閉まる音がして顔を上げると、ジゼルの姿はもうなかった。
急いで追いかければ間に合うかもしれない。
一瞬そう考えたが、立ち上がることはできなかった。
今の自分には彼女を抱きしめて安心させることすらできないのだから。


彼の名はパトリス・ネビル。工芸家の第1子でゆくゆくは工芸家を継ぐことになるだろう。
けれど、今の彼はアスター神官である。
神官及び乙女という神に仕えるもの達は恋愛ができないわけではないけれど、いろいろと制約がある。
その最たるものが身体的接触の禁止である。
神職に就くことは名誉なことであるから、厭うものはそう多くはない。
生涯を共にしたい相手ができた時には、後任に引き継ぐことで還俗することもできる。
乙女の引き継ぎ相手は「未婚の女子」という決まりがあるが、神官は未婚または喪の明けた独身者と少し条件が緩和されている。
けれど、神職の引き継ぎは周りの状況にも大きく左右される。
新成人の多い年は割とすんなりいくようだが、今年のように新成人が3名と少ない場合はなかなか大変である。
3名のうちホルフィーナがカルナの乙女を、パトリスがアスター神官を引き継いでいる。
前任のアスター神官はユリシーズ。1年以上もアスター神官を務めている彼からの要請を受けたのは、パトリス自身にも家を離れたいという気持ちが少なからずあったからだ。


ため息をつきかけたとき、ノックの音がした。
ジゼルが戻ってきたのかと思ったのだが、現れたのは1年先輩のマウロだった。
「ジゼルちゃんと喧嘩でもしたのか。さっき逢ったら様子がおかしかったんだけど」
「まあ、ちょっと」
パトリスは視線を合わさずに答えた。
「引き継ぎ相手が見つからないからか?」
マウロはいきなり核心を突いてきた。
「それもあるんですけど」
なんとか話を逸らそうと思考を巡らせるがその方法が思い浮かばないパトリスを、マウロは辛抱強く待っている。
「まだ、決心がつかないことがあって」
「それは、ここに座っていれば解決するのかい?」
マウロの言葉がパトリスをひどく不安な気持ちにさせた。
結局、パトリスは自分の悩みをマウロに打ち明けることになったのだった。


成人の儀の後、同級生だったジゼル・ペッパーに告白され付き合うことにして家に戻ると、現在の工芸家である父から工芸家を継ぐ心構えをしておくようにと切り出されたのだった。
驚きのあまり返事もできなかった彼に、父は今すぐにというわけではないがと苦笑してその場は収まった。
《偉大な工芸家》と評される父、将来継ぐことになるとは思っていたけれど、あまりに急なことで気持ちが揺らいだ。


マウロはパトリスの話を口をはさむことなく黙って聞いていたが、話が終わると単刀直入に言った。
「心配しているのか?寿命のこと」
隠していた不安を露わにされてパトリスは動揺した。
「確かめてきたらいいんじゃないか?」
パトリスがマウロを見返すと、呑み込みの悪い生徒を諭す教師のようにもう一度言った。
「僕が代わってあげるから、還俗して親父さんに聞いてくればいいよ。その上でまだアスター神官をやりたいって言うなら、いつでも代わってあげるよ。ただし、そうなったら次はないと思うけどね」
からかうように笑うマウロの好意にパトリスは甘えることにした。
「でも、どうしてこんなに親切にしてくれるんですか?」
パトリスの口から出た疑問に今度はマウロが苦笑する番だった。
「親切っていうか、自分のためでもあるからね」
意味が分からないという顔をしたパトリスにマウロは少し照れくさそうに言った。
「僕は今セシルさんと付き合っているんだ」
セシルはジゼルの2歳年上の姉でイスカの乙女を務めている。
「セシルさんはジゼルちゃんに乙女を譲る気はないって言うし」
乙女を姉妹で務めることはそう珍しいことではない。実際、セシルはその上の姉ソフィアからイスカの乙女を引き継いでいたはずだ。
「セシルさんはジゼルちゃんのことが大好きなんだよ。はっきりは言わないけどね」
マウロは柔らかく微笑んだ。
その表情でマウロがセシルのことを大切に思っていることが感じられた。


引き継ぎの儀を済ませたパトリスが実家の工芸家の家に行くと父ホセバは在宅していた。
パトリスの姿に少し驚いたようだったが、にやりと笑って言った。
「工芸家を継ぐ決心がついたか?」
「それはまだだけど、聞きたいことがあって。……親父、体調に変わりはないか?」
恐る恐る切り出したパトリスの顔を見てホセバは吹き出した。
「そんなことを心配していたのか。体調に問題はない」
「じゃあ、なんで?」
ホッとすると同時に照れくさくなって少し怒ったような口調で詰め寄るパトリスに、ホセバが視線を逸らした。
「フランセットのためだ」
「母さんの?」
「ああ。お前が成人する少し前だった。お前という後継ぎもできたことだし、そろそろ自分の夢を叶えたいって言い出したんだ」
母フランセットはカルナの乙女を務め、工芸家の家に嫁入りをしてホセバを支えてきた。
その母に夢が有ったとは思いもしなかった。
「母さんの夢って?」
パトリスが問うと、ホセバはあっさりと言った。
「龍騎士だと」
龍騎士になるには、選ばれた戦士12人の頂点に立つ勇者になって、バグウェルへの挑戦権を獲得し、さらにそのバグウェルに勝たなければならない。
だが、王とその配偶者、工芸家とその配偶者、そして現役の戦士の配偶者は戦士にはなれない。
けれど、ホセバがパトリスに工芸家を譲ればフランセットは束縛から解放され、夢を叶えることが不可能ではなくなる。
そう納得した途端にパトリスは自分のことしか考えていなかったことに気づいて恥ずかしくなった。
今まで自分の技術が未熟だから継ぐことへの逡巡が有った。
だが、本当に大切なのは人を思う気持ちなのだ。
工芸家が天使像を彫るのはこの国に降りかかる災いを像に託すため。
たとえ技術が優れていたとしても、心のこもっていない像に何の意味があるだろう。
うつむいてしまったパトリスの肩にいつの間にか隣に立っていたホセバの手が置かれた。
「もう、大丈夫だな」
「ああ、もう一つの問題が片付いたら必ず」
パトリスは久しぶりに晴れ晴れとした気持ちで笑った。
そして、もう一つの問題を片付けるために工芸家の家を出た。