私は、自分の人生、すごく人に恵まれてると思うんです。


子供の頃から、学校でも会衆でも嫌な思いをすることはほとんどなく人間関係に深く悩むようなことはなかったですし、JW辞めてからの新たな出会いでも、ほんとにこの人無理だと思ったのは1人…だけです。

ありがたいことに、自然に素敵な人が寄ってきて、仲良くしてくれたり助けてくれたりする人生なんです。


先日娘が小学校に入学したのですが、同じ幼稚園から同じ小学校に行く子は一人もいなくて、私も娘も、まっさらな人間関係からのスタートでした。

でも、ちょっとした会話から、入学して1週間、気づいたら何人も同じクラスのママ友ができ、上の学年の頼りになるママ友もできてました。

ほんとにありがたい話です。


先日の母とのLINEのやりとりで、母がこんなこと言ってました。

MAYはほんとにどこの会衆でも可愛がられ、大学生の時初めての会衆に一人で交わっていた時も、みんなに愛をいっぱい示してもらって、お母さんはどこに行っても変わらないJWの組織の素晴らしさに安心していられました。その愛を教えてくださってるのがエホバなんだよね。MAYが元々持っていたものなんて何もないんだと思う。


だからエホバの教育は素晴らしい。この組織の一致は素晴らしいって言いたかったんでしょうね。


私もある程度はそれを認めてます。

子供の頃から、人として生きる上で大事なことは聖書から教えてもらって、それを幼い時から自分に当てはめてきたからうまくいったことって人生でたくさんあるはずだし、それを同じように当てはめている人が周りにいる環境って、私にとっては居心地がいいものでした。

その点では、それを教えてくれた親にも感謝してます。


だから、神への信仰をなくして聖書が本当に神の言葉なのかわからなくなった今でも、聖書に対する敬意みたいなものはあって、聖書の言葉は、人生で大切なことを思い起こさせてくれたり、円滑な人間関係に必要な特質を思い起こさせてくれたりする、そういう存在です。

もちろん、聖書を学ばなくたって大切なことは別のところから教えてもらってもっといい人生になってたかもしれませんが、そういう世界線はたらればでしか語れないので考えないことにしてます。

子供の頃から奉仕で訓練されてきたことや、自分を広げるように教えられて会衆内外の人に積極的に話しかけてきたことは、今の人間関係でも初対面の人に話しかけるのに役立ってますし、聖書から教えられた好ましい特質を意識するのはマイナスにはなりませんからね。


全てには従えないけど、いいと思うものだけを取り入れて生きる。それってそんなに聖書に反した悪い生き方ですかね?

独りになった時に、誰も何も教えてくれなくても、昔教えてもらった教訓を記憶から出して今の生活に当てはめてるって、教えた側からしたらほんとはめちゃくちゃ嬉しいことだと思うんですけどね。




だからお母さん、大事なのは、教えられ続けることじゃなくて、独りになっても大事な教えが心の中に残ってて自分のものにできてるかなんじゃないかな。


あと、お母さんが言ってたことで間違ってるなーと思ったのは、JWの組織にいたから周りの人はみんな親切で私はみんなに愛された、って言ってたけど、聖書を学んでいない世の人も、優しい人いっぱいいるからね。

私自身が変わらなければ、JWでもそうじゃなくても、この先もきっと人に恵まれた人生なんだと思います。



子供の入学で人間関係がガラッと変わった機会に改めてそんなこと考えて、あー私はこの先も大丈夫だなと、周りにいてくれる人たちに感謝をしているところです。