箱根駅伝が好きで毎年テレビで見たりするんですけど、私は青山学院大学の走りが大好きなんです。駅伝部の原監督の、アスリートとしてだけじゃなくて人間としても育てたいという指導が走りに出てる感じ。


ネット記事を見ててふと目に入った、原監督のインタビュー記事がありました。その中の


原監督が考える「体罰」がなくならない理由


という項目に目を奪われました。


原監督によると、その原因は、指導者が言葉を持っていない。そして学生に言葉を持たせていないから、だそうです。

せっかく言葉で伝え合えば理解できる人間なのに、言葉で伝える時間やエネルギーを省略すると、手っ取り早く指導する術は「暴力」になってしまう。

指導者と学生が「支配する側」と「支配される側」の関係になってしまうのはダメ。だからこそ学生に言葉を持たせることが重要。学生が言葉を持てなくなることが1番怖いことだ。


この記事で書かれている「体罰」とは、部活動などの学生スポーツ界での指導者から学生への体罰を指してますが、JWの中で行われてきた指導にも同じことが言えるなーと考えてました。


特に、親子関係において言葉をなくしてしまっているのは本当に問題です。


親が自分の言葉を持っていない。

自分の言葉で子供に伝えるという時間やエネルギーを使わずに、鞭で押さえつけることがよしとされていた時代もありました。

今は文字通り鞭で叩くということは少なくなっているかもしれませんが、それでも組織の言いなりなので、自分の言葉を持っていない親が多いのは変わりないんでしょうね。


そして、子供が自分の言葉を持っていない。持ってもいいと思えない。

子供の頃、安心して自分の正直な気持ちを話してもいいと思えたことなんてあったかな。

親、組織と違う考え方は全部否定されて鞭の対象になるから、恐怖心からいつの間にか親の顔色を伺って、自分の意志は度外視で親の望む選択をするような子になってました。


そんなふうに、言葉を持たずに「支配する側」と「支配される側」になっちゃってた親子関係、まともな子が育つわけないですよね。


親に関して言えば、家の中では「支配する側」だけど、組織の中では、言葉を持って逆らえば罰を受ける「支配される側」だったわけなので、板挟みになる苦悩はたぶんあったんでしょうけど。



私が、親に対して言葉を持ってもいいと初めて思えたのは、排斥が決まって、エホバの証人という肩書きがなくなった時でした。



エホバの証人でなくなって初めて、もう親の望む自分じゃなくていいんだと思えて、子どもみたいに自分の思いを話しました。

その時の会話で少しだけ親の気持ちが見えたような気はしたけど、親もエホバの証人という肩書きがある限りは、本当の自分が持つ言葉を伝えてくれることはないんでしょう。


私はエホバの証人でいることが嫌だったわけじゃないんです。ただ、ちゃんと自分の言葉で伝え合いたかった。

たとえ結果が同じだったとしても、血の通った率直な会話ができる親子関係が築けていれば、私の傷も、多くの2世たちの傷も、今よりは少し軽かったんじゃないかなと思ってしまいます。



今は、私の側はいつでも自分の言葉で語れる準備はできています。

あとは、母がいつか自分の言葉を持つ大切さに気がつく日が来るのを願うだけです。