最近心穏やかではいられない出来事や報道が続いて、忘れていたいろんなこと思い出してるので、今のうちに書き留めておきます。



これはうちの家族だけかもしれないという前置きは入れておきますけど。


エホバの証人は性的な事柄に関して非常に厳しいと言われていて、それは最もだと私も思ってます。

でもよく考えたら、性的なことを「する」ということに関しては異常なほど敏感に反応しますけど、性的なことを「される」ということに関しては私も含めてうちの家族はとても鈍感だったなという印象です。



性被害、セクハラについて考えてたら思い出した出来事があります。

あれは私が排斥される少し前なので、23か24歳の時です。JW内のことではないです。


眼科に行きました。初めて行く眼科でしたけど、コンタクト欲しかっただけなので、特に評判とかは気にせず行きました。

その日は代診の男の先生で、病院は空いていました。

一通りの検査をしてから、診察室に入ってお医者さんの診察を受けて異常はないようだったのですが、目が疲れているねと言われて、目の周りのマッサージをされました。

そして、だんだんと顔や頭、そして半袖で薄着の腕や肩のマッサージをされました。


私はというと、嫌だなという感覚はあって、これは眼科ですることではないなという思いはあったけど、診察室には看護師さんもいるのでこれがセクハラだという確信が持てず、病院が今日は空いてて時間があるからサービスなんだなとか、目の疲れから来る体の疲れまで改善してくれようとしてるんだな、とか、頭の中で必死でいい方の可能性を探してました。

でも自分の中で、これは絶対におかしいという決定的なことがあって、診察室を飛び出しました。



今考えれば、かなり早い段階でアウトなんですけど、当時の私は、セクハラの認識にとても鈍感だった。


でもあれはなんだったのかとモヤモヤしていたので、母と姉のいるところで、その日の出来事を話したんです。そうしたら、母の一言は

「変な先生だね。嫌だったらもう行かなきゃいいよ。」

でした。姉もたいして何も感じていないようでした。

やっぱりあれはセクハラではなかったんだと自分で自分を納得させました。


その夜に、当時こっそり付き合っていた彼氏(今の旦那)にもメールでその話をしました。

すると家族とは全く違う反応で、すぐに電話がかかってきて、びっくりするくらい怒って「それは明らかにセクハラだぞ」って。

彼は、次に代診の先生が診察する日を調べて、その日に病院に乗り込んで、その先生と直接話をつけました。


家族と彼氏、どちらが普通の感覚かわからなくなりました。それと同時に、この先自分が何か性的に嫌なことをされた時、家族はあてにならない、自分でなんとかしなきゃなと思いました。


今はどっちが普通の感覚かわかります。

嫌だったらもう行かなきゃいい。それは当然なんですけど、身近にいる大切な人がセクハラまがいのことをされたら、もう二度とそんな経験してほしくない、守りたいという感情や、怒りが湧き上がるのが普通です。


そういうことに鈍感な私の家族は、相当なことが起こらない限りは怒りもわかないのでしょう。


そのくせに、私が世の人と付き合ってるかもしれない、不道徳をおかしているかもしれないと感づいた時は、びっくりするくらいの執念で監視のようなことをして、罪を暴きました。


敏感になるかどうかの基準は、性的なことだからではないんです。JW的に問題になることなのかどうかなんです。

身近な人を性犯罪から守るという正義感はないのに、JWの基準に違反することに対する異常な怖れや罪を暴く正義感はあるんですよ。



私自身セクハラの感覚がわからなかったというのは、幼い頃から大人に囲まれてきて、スキンシップは当たり前の感覚だったからかもしれません。親も、JW内は安全だからスキンシップは可愛がられてる証拠くらいにしか思ってこなかったんでしょう。


この環境と感覚で生きていたことを考えると、組織内で起こる性犯罪に、今現在もあの中にいる被害者自身も周りの人も気づきにくいというのは、想像できちゃいます。


私もあそこを出て、普通の感覚に触れて初めて、性犯罪に対する敏感さを持てたのだと思います。



うちの家族を含めあの中にいる人、特に親の立場にある人は、もっと「守る」ということに力を注がないと、気づいた時には既に、自分や本当に大切な人が一生の心の傷を負っているかもしれないよということは言っておきたいです。