形を与えているのは
「想い」
だが
想いに
「形」
なし
「心」は
鏡に映る顏を自己と
疑いもせずに
「その私」に
関わる全てに対し
「他者」として
接する
どんなに近しい間柄でも
融け合いたいと願う相手とも
「個人」は
‟ 錯覚の自他分離による
隔たりを感じている表れ ‟
ゆえに
‟ 融け合いたい ‟
個人の願いは
叶わない
されど
分離(個人)は
錯覚
そもそも
生 に
‟ 融け合う ‟
「境界」は
引かれていない
自ら
普遍性
「自己」として
特定され得る
‟ 場所 ‟ が
存在しない
「個人」には
‟ 私の体は
私個人の意志で働いている ‟ と
感じられているが
個人に自己とされている
「体」は
個人の管理下では
ない
「個々人の活動」が
‟ 個人を前提に生は存在する ‟
証明にはならず
ゆえに
「表面上の顏」に
縛られないこと
「形」は
その表現以上の
何でもない
‟ 悪役よりヒーローの方が偉い ‟ とか
‟ 生徒より先生の方が優れている ‟ とか
生 を
分割する境界なく
相反する表現は
一なる
指し示されているものは
‟ 多くの人に受け容れられるべき真理 ‟ では
なく
その人たちがいない
こと
「個人」を
形作るは
蓄積された想いだが
「想い」に
実体なし
「心」は
神性 を
想像するが
「想像されているもの」と
神性 は
相容れない
「思考」は
何かを見出している様で
何も見い出していない
なぜなら
「思考」は
自ら考えるものでは
ない
「形」は
生命の遊戯
即ち
実在していない
多彩に溢れた世界
体感を通し触れる生の味わい
他者として出逢うこと
全ては
自ずから の
体験
「個人的なもの」は
何もない
個人的願望なきところに
距離なきところ に
自由 は
在る