穴太寺は山号を菩提山と号する天台宗の寺院で、西国三十三所観音霊場・第21番
及び神仏霊場・第130番札所となっています。
仁王門(山門)は、江戸時代中期に再建されたもので、京都府登録文化財になっています。
穴太寺の詳細についてはこちらをご覧ください。
多宝塔は、文化元年(1804)に再建された亀岡市唯一の木造塔で、
京都府の文化財に指定されています。
本堂
穴太寺は飛鳥時代の慶雲2年(705)に文武天皇の勅願により
大伴古麻呂(おおとも の こまろ)が、薬師如来を本尊として開創したと伝わります。
平安時代の後期、花山法皇によって西国観音霊場が復興されると、
穴太寺は栄え、室町時代には足利将軍家の庇護も受けました。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)で被災すると、天正年間(1573~1592)には
明智光秀による丹波平定の際に、兵火により焼失しました。
江戸時代の中期になって、行廣上人によって中興されましたが、
享保13年(1728)に本堂を焼失し、7年後の享保20年(1735)に現在の本堂が再建され、
京都府の文化財に指定されています。
穴太寺の東、すぐ近くに円山応挙の生誕地があります。
グーグルマップにも載っていないし、亀岡市もそれほど重要視していないように思えます。
穴太寺の仁王門前を東へ進んだ所に、現在使われていないような建物があり、
そこに応挙の記念碑は建っていましたが、生誕地の石碑は見つけることはできませんでした。
円山応挙は享保18年(1733)に穴太村の農家の次男として生まれました。
生まれる前年、西日本は虫害による飢饉があり、応挙が生まれた年には
多数の死者も出たとされ、厳しい環境下で生まれ、育ちました。
応挙は幼少時期(8歳~15歳頃)に金剛寺に小僧として預けられました。
金剛寺は穴太寺の西側から北へ進み、犬飼川に架かる橋を渡って左側(西側)へ曲がり、
小幡神社の横を北へ進んだ先にあります。
穴太寺から約500mの距離にあり、「応挙寺」とも呼ばれています。
金剛寺は天龍寺を開いた夢窓国師の師匠に当たる仏国国師を開山とし、
正応2年(1289)に創建され、元文3年(1738)に玉堂和尚によって中興再建されました。
山号を福寿山と号する臨済宗天龍寺派の寺院です。
山門は鐘楼門で明和8年(1771)に建立され、「亀岡の自然100選」に指定されています。
応挙は15歳の頃京都のビードロ道具を扱う「尾張屋」で奉公することになりました。
ビードロとはガラスの意味で、当時まだ珍しかったガラスのレンズを使った
望遠鏡やのぞき眼鏡はビードロ道具と呼ばれていました。
なかでも、輸入されたのぞき眼鏡は、レンズを通して見ると、絵の遠近感が強調されて
立体的に見えるのが珍しく、流行していました。
のぞき眼鏡に使用される絵は、眼鏡絵あるいは浮絵(うきえ)と呼ばれ、
輸入品だけでなく、国内でも描かれるようになりました。
応挙も描くようになり、尾張屋の主人は応挙の絵の素質を見抜き、応挙17歳の頃、
狩野派の絵師、石田幽汀(いしだ ゆうてい)に絵を習わせました。
応挙は明和3年(1766)頃から圓満院の祐常(ゆうじょう)門主の援助を受け、
圓満院時代と呼ばれるほど多くの作品を生み出しました。
天明8年(1788)、応挙56歳のとき両親の追善供養と幼少時代の感謝を込め、
金剛寺の本堂全面の襖と壁面57面に「山水図」「波濤図」「群仙図」を描き寄進しました。
「山水図」「波濤図」は、東京国立博物館に寄託、「群仙図」は収蔵庫に保管され、
毎年11月3日の「文化の日」に一般無料公開されています。
襖絵「波濤図」は、実物をデジタル撮影し、京都市内の美術印刷会社によって仕上げられ、
本尊の釈迦牟尼仏の両側に6面ずつ配置されています。
事前予約すれば無料で拝観することができます。
こちらが収蔵庫でしょうか?
2019年11~12月に京都国立近代美術館で「円山・四条派」の作品が一堂に会する
特別展「円山応挙から近代京都画壇へ」が開催される予定です。
西国薬師霊場・第43番札所の神蔵寺へ向かいます。
続く







