龍潭寺は神蔵寺からバイクで約10分の距離ですが、この時期、暑くも寒くもなく、
交通量も信号も少ない田園風景の中を移動するのは快適です。
龍潭寺の駐車場へ入る手前に寺号が刻まれた石標が建っています。
龍潭寺は山号を金剛山と号する臨済宗妙心寺派の寺院です。
京都府文化財・名勝の碑
山門までの山側は京都府の名勝に指定されている庭園で、度々映画のロケ地にも
なっているようですが、この時期、まだ苔の生育が悪く、当初イメージしていたのと
隔たりがありました。
池らしきものが見られますが、水は枯れています。
水源が無いと水を引くのは難しいかもしれませんが、
庭園に池があると庭園が引き立つように思えます。
石橋らしきものは落ちています。
自然石が巧みに組まれた上に小さな祠が見えます。
大きな岩の前に石仏が配されています。
山門の手前には地蔵堂があります。
山門前に飾られていた可憐な花に見とれて、山門全体を撮るのを忘れてしまいました。
門を入った右側に鐘楼があります。
左側には放生池があります。
池の中には弁天堂があります。
正面に本堂があり、「お寺で婚活」の横断幕が張られています。
京都市内の観光寺院には多くの人が殺到しているのに、ここは静かです。
現在は境内を独り占めしています。
京都大徳寺の住持であった雪江宗深(せっこうそうしん)は応仁・文明の乱
(1467~1477)の間、南丹市八木町の龍興寺へ難を逃れました。
その頃、この地に庵を結び、後に大梅寺としたのが龍潭寺の始まりとされています。
大梅寺は延徳元年(1489)に焼失し、その後弟子の特芳禅傑(とくほうぜんけつ)が
この地に来住し、細川家の家老・松井宗信が隠棲しました。
細川政元の援助により、明応元年(1492)に堂宇が再建され、金剛山龍潭寺と改め、
特芳禅傑を開山と定められました。
皇室や徳川氏の帰依により大いに栄えましたが、安土・桃山時代の天正3年(1575)に、
明智光秀の丹波平定による兵火を罹り焼失しました。
享保14年(1729)に現在の三宝殿(本堂?)が再建され、文化年間(1804~1818)から
嘉永年間(1848~1855)に庫裏と方丈が再建されました。
一切経蔵は他の真言宗の寺院から移されたと思えます。
一切経堂の前、右側に祀られている仏像は斜めに立ち、
初めて見た不思議な印相をされています。
なぜ斜めに立っているのか...? 印相は何を示されているのか...?
すごく気になります。
経蔵前、左側の石灯籠。
堂内には飾りが施されていますが詳細は不明です。
経蔵の内側に掲げられている扁額には空海筆と記されています。
胎蔵界大日如来像が安置されていますが、
サイズが合わず光背が外され、横に立てられています。
象の引き車が置かれていることから、
どこかに普賢菩薩像が安置されているのかもしれません。
天井の龍の図は昭和39年(1964)に描かれたものです。
一切経蔵の右側に開山堂があります。
堂内の中央には特芳禅傑像が安置され、左右には多数の位牌が祀られています。
本堂と開山堂を結ぶ渡り廊下の下をくぐり背後の行者山(431m)へ分け入ります。
廊下の下をくぐった所には昔の手押しポンプが置かれていました。
行者山には花崗岩が含まれ、古くから石材の切り出しが行われていました。
山中には多数の巨石が露出しており、その上に三十三所の観音霊場の本尊が
祀られ小さな霊場が設けられています。
登って行った先に庚申堂があり、
細川政之の念持仏であった青面金剛童子像が
安置されていますが、扉は閉じられていました。
古くから子供の疳の虫に御利益があるとされています。
明智光秀の首塚がある谷性寺(こくしょうじ)へ向かいます。
続く


























