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【復興日本】第5部 待ちかねた槌音(5)

 8月下旬、宮城県女川町の安住宣孝町長は東京で開かれたシンポジウム「震災と地域医療」の基調講演に立った。復旧・復興で多忙な中、参加したのは、主催者で女川町立病院を救った公益法人「地域医療振興協会」に感謝を伝えるためだった。

 「震災後、猫の額のような場所にヘリコプターが着陸し、皆さんの仲間が次々に降りてきた。町民がそれにどんなに力づけられたか。私はそのとき、この町は元に戻る、何とかなるという確信を抱きました」

 協会が支えたのは、震災後の支援だけではない。病院の存続そのものだ。経営難の女川町立病院の管理・運営を協会にゆだねて再建する民営化(指定管理)が町議会で決まったのは3月11日、震災発生の日だった。

 被災した東北沿岸は、どこも医師不足と高齢化に悩む。慢性疾患による入院長期化で病院は赤字体質。どの自治体も運営に頭を悩ませる。被災地の医療再興には、これらを視野に入れたビジョンが不可欠だ。

 女川町立病院も震災前は「医師の確保もままならず、努力しても膨らむのは赤字だけ」(安住町長)という病院だった。

 震災の1年前、安住町長は、地域医療振興協会に病院再建を打診した。協会は、自治医大の卒業生らが「僻地(へきち)医療の確保と質の向上」を掲げて発足、全国で49の医療機関や施設を運営している。協会は、最初は打診を断った。山田隆司常務理事は「毎年、100以上の市町村から支援要請があるが、われわれも医師をプールしているわけではない」と、苦しい事情を打ち明ける。

 町の熱心な依頼に、協会は一つの前提条件を提示した。ベッド数を98床から19床に減らして「病院」の看板を下ろし、「有床診療所」として再出発を図る、というものだ。山田常務理事は「規模にこだわれば、医師が不足する。非常勤医を集めて、専門以外は診られないミニ大学病院をつくるより、少数の常勤医がかかりつけ医として患者にかかわり、往診に力を入れる有床診療所にした方がいい」というのだ。

 医療機関の規模縮小に抵抗感が強いのはわかっていた。それでもあえて、この前提条件を受け入れるならば再建に乗り出すかどうか検討する、としたのは、一緒に地域医療を目指し、議員や住民を説得する“覚悟”を問う意図があった。

 町側がこれをのんだことで、協会による再建計画が動き出した。

 ■地域医療を守る、思いは一つ

 地域医療振興協会が、女川町立病院再建の要となる院長職を打診したのは、福島県磐梯町の有床診療所で地域医療に携わってきた斎藤充医師だった。

 斎藤医師は決断の理由を「山田先生の熱意としか言いようがない」と語る。

 「磐梯町に骨を埋めるつもりだった。『最期をみとってほしい』という患者もおり、後ろ髪を引かれたが、女川町のような1万人規模の町で医療機関がなくなれば町民が困る。私が役に立つなら、と引き受けた」

 斎藤医師らは女川町民説明会で総合診療、午後の外来、急病の往診、在宅でのみとりをすることを掲げ、診療所化に理解を求めた。

 あの日、女川町立病院には、先行赴任していた斎藤医師をはじめ、移行準備にあたる協会職員がいた。

 津波で町役場が冠水し、高台に立つ病院も1階は津波に洗われた。町の通信は遮断され、テレビにも新聞にも女川の情報は出ない。山田常務理事らは翌々日には医療物資を集め、ヘリコプターで女川町立病院に向かう。「組織的というより、身内を救うために支援を始めた」と振り返る。

 震災後、協会では病院の運営・管理から撤退してはどうかとの声も出た。しかし、「被災したからと、運営を降りるわけにはいかない」(山田常務理事)。協会は結局、総力を挙げて女川を支援した。8月までに延べ2500人超の医療職やスタッフを派遣。さらに、必要とされる訪問診療や心のケアを急ぐため、有床診療所化を当初計画の来年4月から今年10月に前倒しすることを決めた。

 被災後の人口流出、町の再興、同町にある女川原発の行方など不透明な部分は多い。山田常務理事は「地方の赤字病院の再生は何度もお手伝いしたが、町の再生は初めて。町と二人三脚で地域の人と知恵を出し合い、信頼しあってやりたい」と気を引き締める。

 病院スタッフの結束が強まり、意識も変わった。かつて同病院は専門分化し、「専門医がいないから」と診察を断ることもあったようだ。それが「断らない」が当たり前になり、困っている患者を率先して助けるようになった。斎藤院長は「震災で本当につらいことがたくさんあったが、改革を目指す私たちには悪いことばかりではなかった。人生に寄り添うような、かかりつけ医療を目指して『女川モデル』を作っていきたい」と意欲を見せた。

 宮城県南三陸町では、公立志津川病院が全壊した。病院機能を、高台の公立南三陸診療所と、隣接する登米(とめ)市に設けた入院病棟(39床)に分けている。

 夏とは思えぬ寒い雨の日、患者は傘をさして南三陸診療所のプレハブを行き来していた。病院再建には時間がかかりそうで、当面の課題は雪が降る前の建て替え、という。

 約1万7千人だった人口は、5月推計で1万4千人。人口減は病院存続の不安要因だが、南三陸町は登米市からも気仙沼市からも車で約1時間かかる。町の医療統括本部の責任者で、南三陸診療所の西沢匡史医師は「規模は縮小しても、ここには病院が必要。在宅医療を充実し、医療と介護の機能を兼ね備えた病院にしたい」と話す。

 最大の課題は医師の確保だ。西沢医師は「開業の先生との協力も重要」という。同町にあった6カ所の診療所はすべて倒壊し、再建見通しは2カ所。被災した開業医、笹原政美医師も嘱託医として診察に入っている。志津川病院勤務の経験もあり、残ることが期待されたが、笹原医師は登米市の仮設住宅近くで開業することにした。

 「葛藤はあったが、僕の患者さんが向こうにいる。患者さんの仮設住宅が決まり、紹介状を書いたとき、これが最後の別れかという感情を抱いた。地元を離れたくないのに、離れざるを得なかった患者さんを思うと、僕が動く方がいいかと」。医者と患者の関係は、あるところから先は人と人の信頼、と笹原医師は言う。

 「南三陸町には応援の医師も来る。僕は違う形で志津川の人に安心を提供しようと決めた」

 一方、西沢医師は登米市に病棟を確保した理由の第一に「看護職の雇用の維持」を挙げる。70人いた看護職は今、50人。仕事がないから、と人材が流出すると再結集は難しく、病院再建もおぼつかない。その病棟で働く高橋るり子看護副部長は「津波の中、患者さんに寄り添って亡くなったスタッフもいる。その人たちの分までがんばらないと」と言う。再建まで残るつもりだ。

 去る人も残る人も地域の医療を守りたいという思いは同じである。(佐藤好美、道丸摩耶)=第5部おわり


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