前にどこまで書いたかすら忘れた。適当なところから再開する。

 

 浮彫の連なりはその巨大さ故に間に水路を挟んでもはっきりと見え、その主題はドレをも嫉妬させそうなものであった。これらは人を――少なくとも、ある種の人間を描写しようとしたものではないかと思う。ただこの生物たちはどこかの海蝕洞窟に棲む魚のように泳ぎ廻り、あるいは彼ら同様海の底にあると思しき重厚な神殿に参詣する様を描かれているのだった。その顔形に関しては詳細には及ぶまい。ちょっと思い出しただけでも気が遠くなりそうだからである。ポーやブルワーでさえ想像だにできないようなグロテスクさだった。水かきのついた手足、ぎょっとするほど幅広く弛んだ唇、虚ろな、突き出した目玉、そしてその他のこれらよりもっと思い出したくないような特徴にも関わらず、それらは全体としては紛れもなく人間だった。大変興味深いことに、それらは場面の背景とはかなり不釣り合いに彫られているようだ。というのも、生き物の一人は鯨を殺しているところを描かれているのだが、その鯨は彼より少し大きいだけだからだ。私は彫刻のおどろおどろしさと巨大さについて、このように述べてきた。しかしそれらが漁と航海に生きた原始的な部族――その最後の生き残りが、ピルトダウン人やネアンデルタール人の最初の一人が生まれるずっと前に死に絶えたような部族の、想像上の神にすぎないのだと結論したのは一瞬ののちであった。どんな挑戦的な人類学者でも思いつかないような予期せぬ過去への展望に打ちのめされて、月が目の前の静かな水路に奇妙な光を投げかける中、私は無言で立ちすくんでいた。




 教職過程でひと、にんげん、じんるいという言葉の使い分けについて考えたのを思い出す。こういうのは得意だと思ってたが、文系ガチ勢にあってはそんなちっぽけな自負も形なしだった。