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2024年9月6日で4年が経ちました。


4年経った今も裁判が終わっていないとは思ってもいませんでしたが、今月下旬に漸く控訴審の第一回が決まりました。

 

第一審の判決が出てからおよそ1年半です。

 

被害者側は何もできず、ただ待つのみです。

 

ただ、その間こうしてSNS発信をしてたくさんの方に見ていただけたことはとても勇気づけられ、諦めない気持ちを保つことができたと思っています。

 

みなさんいつもありがとうございます☺️

 

9月6日は命日という特別な日ではありますが、私達家族にとっては「瑛大を失った日」という嫌でもあの日のことをいつも以上に思い出させられる日です。

ただ、辛い日、悲しい日、と言ってしまうと瑛大に申し訳ない気がするのでそんな風には思っていません。

 

瑛大の好きなものたくさんで囲んであげて命日は過ごしました。


ふと、先日寝る前に思い出したことがあります。

 

事故よりそんなに前ではなかったと思います。

 

洗い物をしている私の所に「ねーねーお母さん」と何か気になる様子で瑛大が来ました。

 

私「どうしたー?」

 

瑛大は真剣な表情で

「おれ、家族の中で1番下だからさぁ~みんな先に死んでそしたらおれ1人になっちゃうじゃん。ご飯とかどうしたらいいの?」

って。

瑛大は今の年齢のままで、そんな日がくることを想像したようです。

 

可愛すぎて笑っちゃいました。

 

「お母さんたちが死んじゃう頃には瑛大は大人だし結婚もして子供もいてお父さんになってるから大丈夫だよ!」

って言ったら「あ!そっか!!」と笑って安心していました。

 

そんなほっこりした話ですが、、

 

そうだよなー本当なら瑛大が1番最後なんだよね。って悲しくなりました。



瑛大にはお兄ちゃんが3人います。

 

4人兄弟の末っ子なのと、人懐っこい性格なのでとにかく可愛がられていました。

 

事故の日、連絡を受けた兄達はすぐに車で向かいました。

 

長男は瑛大の一部がまだ見つかっていないということを聞き、着いたらすぐ探すつもりで濡れてもいい服装で来ていたみたいです。

 

そのように私が知らない話が後からたくさん出てきました。

 

瑛大を失ってすぐ私の手術の成功を何時間も待っている家族の心境、瑛大の遺体と対面した時、瑛大の葬儀、火葬する瞬間、瑛大のいない自宅に戻った時など、私の知らない辛い辛い状況がたくさんありました。

 

息子と脚を失って私が1番辛いってことはありません。

脚を失った分は家族みんなの支えと優しさで十分補ってもらってるので大丈夫です😊

 

今後少しづつ、私の知らなかった部分のお話しもしていけたらと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。